志賀直哉の『日記』及び『書簡』に見る志賀家の女中「たか」とは


志賀直哉の『日記』及び『書簡』に見る志賀家の女中「たか」とは


 平成17年に千葉県会議員の浜田穂積(はまだ ほづみ)氏から武者小路実篤誕生日の記念集合写真(大正6年5月12日撮影・於武者小路実篤邸跡地、現 我孫子山荘)の中の「女中」は、志賀家の女中坂巻たかさんではないかとの御指摘を受けました(右から2番目の女性)。

 そこで、急遽『志賀直哉全集』(第16巻 岩波書店)「日記人名注・索引」から《たかの項》をさがし出し、該当する日記文や手紙文を原文のまま引用し、年代順・場所別に列記してみました。   (参照:「志賀直哉の『日記』や『書簡』に見る女中たか」)

それらから浮かび上がるたかの人物像は、かなり明確なものであり、志賀直哉との距離も身近なもので、あの時代の主従関係の中にあっても人間的な心の交流があったと感じずにはおられません。

御親族の方々がこれらをお読みになって、坂巻たかさんの人物像とどこか重なる所を見つけ、何かを感じてくだされば有り難いと思います。

 特に直哉の『日記』(昭和6(1931)年3月4日 奈良高畑時代)には次の記述があります。「女中たかかへる、足掛けにして十二年いた女中なり、伊セ参りして夜行にて我孫子へかへる、」です。

さらに、昭和15(1940)年1月5日、東京市淀橋区諏訪町時代の直哉の『日記』には「柏よりたかとよし来る 珍し、」とあります。 「足掛けにして十二年いた」や「我孫子」、「柏」の地名そして、《よし》(『全集』注釈に益田ヨシとあります)という人名などに

坂巻たかさんにつながるヒントがありそうな気がします。

その他、年代は前後してしまいますが、たかより先輩格の女中と見られる《常(つね)》がいます。 『日記』や『書簡』には一回ずつしか登場しませんが、代表作『和解』の中の劇的場面(大正5年7月30日の晩長女慧子の急病が発生し、慧子を抱いた直哉一行が回春堂に走って向かう)に実名で出て来ます。

たかと同時期にほぼ同一の行動をしている同輩格の女中《兼(かね)》もいます。《兼》は直哉の『日記』中、たかと同時期に3回登場しています。《常》・《兼》からも坂巻たかさんに関わるヒントが見いだせることを願っています。

平成17(2005)年11月27日に実施した「聞き取り調査時の御親族のお話」と志賀直哉の『日記』や『書簡』に見るたかの記述とにはかなりの部分において共通点が有ります。

が、残念ながら写真の中の女中が坂巻たかさんであると確定するには、これだけではいささか弱いと思われます。しかし、いつか決定的な確証・実証が得られることを心から願って資料を作成しました。

では、次回からこれらについて順にご紹介していきたいと思います。