志賀直哉と鈴木昇(我孫子尋常高等小学校教員)の交流


志賀直哉と鈴木昇(我孫子尋常高等小学校教員)の交流
−大正10年11月、岸田劉生による「図画教育」の講演を我孫子の小学校へ導く−

目次
1. “小学校の先生”と志賀直哉、そして岸田劉生を結ぶドラマを直感し推理する
1) 志賀直哉の『日記』(大正11年)に見る鈴木昇教員
2) 鈴木昇教員に関する大正11年以前のデータを見つける−品田制子氏による『妻たちが見た「白樺派」の我孫子生活』から
3) 小学校の先生(が喜んでゐた)と岸田劉生の発見−「大正10年、直哉の三通の書簡」から
4) 大正10年11月27日、岸田劉生が我孫子の志賀邸に泊りがけでやって来たこと

2. 鈴木昇教員の岸田劉生への思いと憧れ
1) “小学校の先生 ”とは誰のことか
2) 金子洋文・木村もとによる「家庭教師としての鈴木昇教員」のこと
3) 鈴木昇教員が喜久子の家庭教師をしていた「期間」について
4) 岸田劉生に出会うこと − それは、鈴木昇教員にとって青春のピーク
5) 『或る男』の記述−角力をとる劉生
6) 一行の記述からドラマを読み取ること

3. 「大正10年、直哉の三通の書簡」と整合する『岸田劉生日記』の一日と
我孫子尋常高等小学校における岸田劉生の講演について
1)『岸田劉生日記』に描かれた鈴木昇教員
2)“もう一人若い畫をかく人”とは誰か−『我孫子第一小学校百年史』の記述
から
3)我孫子尋常高等小学校における岸田劉生の講演内容を推測する
「美的感化ある畫」とは−『図畫教育私見』(講演)から

4. 記憶と記録
   我孫子尋常高等小学校と「我孫子在住白樺派」との交流についてのもう一つ
の事例 − 村上智雅子氏の調査報告書「或る一冊の辞典をめぐって」から

後記

注記

1.“小学校の先生”と志賀直哉、そして岸田劉生を結ぶドラマを直感し推理する

1)志賀直哉の『日記』(大正11年)に見る鈴木昇教員
ある日、『志賀直哉全集』第16巻「日記人名注・索引」の中に、“我孫子の小学校教員”の文字を見つけました。その人物の名は「鈴木昇」とありました。そこで、該当する直哉の『日記』を読んでみると、志賀直哉と「鈴木昇教員」の記述から両者の交流の一端がほの見えてきました。

「日記人名注・索引」の解説
鈴木昇(鈴木教員):我孫子の小学校教員。詳細未詳。 L20、29(『日記』)

『日記』より
大正11(1922)年2月28日   火
木に雪が積んでゐた、
前夜割りに痛む、
朝より三回入浴、
午后鈴木教員友達の家の事で来る 間もなく兼子さん来る
暫くして児玉さん来る
児玉さん柳の家へ引移る筈、
今日痛みいゝとは行かず、

大正11(1922)年4月10日   月
快晴。 根(ママ)の神 島田まで橋本 留女子 寿々子にて散歩 気持よし、
午后鈴木昇来る 小学校転任の由 石井柏亭の二十二年前の水彩画を餞別にする、
留女子旅行しても大丈夫か回春堂に康子訊きに行く 大丈夫といふ、
明后日頃出かけるつもり、

          『志賀直哉全集』第13巻(2000年2月7日発行 岩波書店)より

 しかし、上記『日記』から読み取れる「鈴木昇教員」に関するデータは、大正11年中の2件のみで、「午后鈴木教員友達の家の事で来る」と「午后鈴木昇来る 小学校転任の由 石井柏亭の二十二年前の水彩画を餞別にする」ということで、余りに少なく、これ以上の調査の方法も見つかりませんでした。

2)鈴木昇教員に関する大正11年以前のデータを見つける

我孫子市教育委員会発行 市史研究 第13号 所収

−品田制子氏による『妻たちが見た「白樺派」の我孫子生活』から
ところが、この時点において思い出されたのが、二十年前に書かれた品田制子(しなだ せいこ)氏の『妻たちが見た「白樺派」の我孫子生活』(注1)でした。それは、武者小路房子と柳兼子への聞き取り調査から得られた、我孫子時代における「白樺派」の日常的な生活の香りを紹介したというものですが、その中に、「鈴木昇教員」に関する記事があったのです。

「喜久子は当時小学校に通いながら家庭教師にもついていた。その先生は柏尋常高等小学校の鈴木昇先生であった。鈴木先生は柏の小学校から大正八年に我孫子尋常高等小学校に転任されている。志賀直哉の日記によれば「大正十一年四月十日(月)午後鈴木昇来る。小学校転任の由、石井柏亭の二十二年前の水彩画を餞別にする」とある。武者小路喜久子が我孫子を去った後も志賀との往来があったことが推察できる。鈴木先生はその後千葉県内の小学校を数回転任されて昭和十七年千葉郡(現千葉市)誉田(ほんだ)小学校を最後に引退された。同四十三年に没した。」

とあり、以上の記述から、『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」に解説された“鈴木昇教員”と、品田氏による『妻たちが−』の中の“鈴木昇先生”とは同一人物であることが判明しました。      
さらには、「日記人名注・索引」では取り上げられていないデータ、「武者小路実篤夫妻の養女喜久子が当時小学校に通いながら家庭教師にもついていたが、その家庭教師は柏尋常高等小学校の鈴木昇先生であった」ということ、そして「鈴木先生は柏の小学校から大正八年に我孫子尋常高等小学校に転任されている」ことも書かれてあり、この記述が本調査を押し進めるための大きなヒントになったのです。

3)小学校の先生(が喜んでゐた)と岸田劉生の発見
−「大正10年、直哉の三通の書簡」から
また、ある時『志賀直哉全集』「大正10年の書簡」をひもとくと、大正10年11月21日付けの一通のハガキが目に留まりました。
このハガキは志賀直哉から岸田劉生に差し出されたもので、文中「小学校の先生が来て喜んでゐた」と知らせ、劉生に対しては我孫子へ「泊りが□□(破損)来てくれる事を望む」と頼んでいます。さらに、このハガキの内容に連なる書簡が他に二通あり、これら全てに目を通すことである事柄が見えてきたのです。

「大正10年、直哉の三通の書簡」
@ 大正10(1921)年11月21日 
我孫子より鵠沼の岸田劉生宛て【絵はがき:『全集』書簡番号394番】
  二十七日に君が来る事楽みにしてゐる 二十七でも二十六でも君の都合のいい日
に泊りが□□(破損)来てくれる事を望む、その時長与はどうかしら、
今日小学校の先生が来て喜んでゐた、

A 大正10(1921)年11月28日  
我孫子町より千駄谷町の木下検二宛て【絵はがき:395番】
児島の奥さんの風邪はその后如何、僕の風邪はこじらした形で悪くもよくもならない、
昨日岸田が来た、柳も来た、    以下略

B 大正10(1921)年12月10日
我孫子町より宮崎県 第一新しき村 武者小路実篤宛【封書:398番】
先日岸田が泊りがけで来た、我孫子の小学校に話をし旁々来たのだが、気持よく色々
話した、岸田の人にも絵にも段々深い親しみを感じて来た。 僕の所にある銭しゅん挙の絵に感心してゐた           

『志賀直哉全集』第17巻(2000年7月7日発行 岩波書店)より

ここで、直哉の『日記』及び品田氏による『妻たちが−』のデータ等から得られた鈴木昇教員の経歴について、わかる範囲で仮にまとめてみますと次のようになります。

【鈴木昇教員の経歴】
・ 明治42年千葉県師範学校卒業 東葛飾郡千代田尋常高等小学校訓導となる。(注2−1)
・ 柏尋常高等小学校在職中、武者小路実篤・房子夫妻の養女喜久子(大正5年12月20日から大正7年9月20日頃まで千葉県東葛飾郡富勢村根戸字船戸1090に在住・大正6年5月12日我孫子根戸武者小路邸での記念写真に写っている)の家庭教師をする。
・ 大正8年我孫子尋常高等小学校へ転任。
・ 武者小路夫妻と喜久子が我孫子を去った大正7年9月20日以降も志賀直哉との往来があったと推察される(大正11年直哉の『日記』から)。
・ 大正11年我孫子尋常高等小学校を転出 以後千葉県内の小学校を数回転任。
・ 昭和17年千葉郡(現千葉市)誉田(ほんだ)小学校を最後に引退(昭和14年〜昭和17年学校長を務める)(注2−2)。
・ 昭和43年没す。

ここに、仮にまとめた鈴木昇教員の経歴と、「大正10年、直哉の三通の書簡」の内容とを重ね合わせることで、つまり、“小学校の先生”・志賀直哉・岸田劉生と三人の人物が出揃ったところで、大正10年11月にあったであろう三人を結ぶあるドラマが直感できたのです。
その当時の岸田劉生は、「白樺派」のリーダー武者小路実篤に認められ、雑誌「白樺」における活躍にも目覚ましいものがありました(注3)。その劉生が実篤を慕い、大正6、7年頃我孫子にやって来たことが知られています。これは、鈴木昇教員が喜久子の家庭教師をしていた時期(後述 筆者注:大正6年初夏から喜久子が大正7年9月20日過ぎ我孫子を去るまでか)とほぼ合っています。
本稿においては、以上の経緯を可能な限り詳しく見つめることで、大正10年11月頃、“小学校の先生”・志賀直哉・岸田劉生の三人を結んだドラマとはどのようなものであったのか、さまざまな文献資料を用いて推理を試みたいと思います。

4)大正10年11月27日、岸田劉生が我孫子の志賀邸に泊りがけでやって来たこと
再び、「大正10年、直哉の三通の書簡」の下線部分に注意してみると、次の事柄が想像できます。
大正10(1921)年11月27日(日)、岸田劉生が「我孫子弁天山の志賀邸に泊りがけでやって来た」ことが読み取れます。劉生は「我孫子の小学校に話をしかたがた来た」との事です。それ以前、志賀直哉がこの我孫子の小学校の先生に頼まれ、先生と劉生とを結ぶ仲介の労をとったようで、「小学校の先生が喜んでいた」と、劉生に知らせています。

 

2.鈴木昇教員の岸田劉生への思いと憧れ

そこで、『岸田劉生日記』(注1)における、大正10年当時の記述を注意深く読んでみますと、劉生は各地の学校から依頼されて「図画教育」の「講演」をしていることに気づきます。
「講演」の記事は3箇所あります。先ず、劉生の母校である東京高等師範学校附属中学校(6月28日(火))、次に横浜の小学校(11月20日(日))、そして当時娘の麗子が在籍していたと思われる鎌倉の小学校(12月17日(土))で講演を行っています。
大正10年当時、その仕事が世に受け入れられ意気盛んな劉生が、各地の小中学校で「図画教育」についての講演をしていたわけで、「大正10年、直哉の三通の書簡」にみる岸田劉生が「我孫子の小学校に話をし旁々来た」ということの「話」とは、「図画教育の講演」のことであると思われます。我孫子の小学校の先生が実現を願った「講演」が、志賀直哉を通して劉生の承諾を得たことを知り、「喜んでゐた」ということになったと考えられます。
では、「大正10年、直哉の三通の書簡」にある“小学校の先生”はいったい誰のことであり、ここにある“我孫子の小学校”とは、どこの小学校を指しているのかを考えてみようと思います。

1)“小学校の先生”とは誰のことか 
結論から言いますと、大正10年11月21日付け直哉から岸田劉生宛て【絵はがき】の中の“小学校の先生”は、大正10年11月当時我孫子尋常高等小学校(現 我孫子市立我孫子第一小学校)の先生をしていた鈴木昇教員のことと思われます。
また、それ以前、柏尋常高等小学校の教員時代、我孫子根戸の武者小路実篤邸にて喜久子の家庭教師をしていた人でもあります。
さて、ここからは想像になりますが、鈴木昇教員はその家庭教師をしていた時分に、実篤を通して岸田劉生に出会っていたか、あるいは、見知っていたか、あるいは実篤から劉生の活躍ぶりや人物(人をひきつける強烈な個性と才能、人間的魅力)についてなどを聞き及び、劉生への強い関心と憧れとを抱いていた可能性が考えられます。
やがて、鈴木昇教員は大正8年に柏尋常高等小学校から我孫子尋常高等小学校に転任し、武者小路実篤夫妻と喜久子が「新しき村」に去った後も志賀直哉との交流が続いていたことは、大正11年2月28日と同年4月10日の直哉の『日記』から推察出来ます。
それ故に、大正10年11月の時点において、岸田劉生に「図画教育」の講演をしてもらうべく直哉に仲介の依頼をすることが出来たのではないかと考えられます。

2)金子洋文・木村もとによる「家庭教師としての鈴木昇教員」のこと
金子洋文による「柏町から小学校の先生」
 ところで、鈴木昇教員が喜久子の家庭教師をしていたということについて、金子洋文はその著『父と子』(「我孫子の生活」)のなかで、鈴木昇教員と思われる人物を次のように書き記しています。

私(注:金子)が東京をひきはらって、武者さんの家に御厄介になったのは、大正六年一月一日である。家族は武者さん、房子奥さん、喜久子お嬢さん、女中のべん、私の五人であった。初め私は喜久子さんの家庭教師といふ話で厄介になったが、女学校へ進む関係上急に話がかはって柏町から小学校の先生が教へにやってくることになり、私は武者小路実篤の執事、書生、買物係を兼帯することになった。
 (筆者注:年譜によれば、洋文は「その年の夏実篤邸を去り、上京」とある)

木村もとによる手記『五十年前の「我孫子」を想起して(昭和四十年三月八日)』より
    初めて私が我孫子に行ったのは大正六年の初夏だったと思う。或事情の為め武者小路氏が私をあずかってもよいと言われたのである。 中略 (筆者注:武者小路邸は)手賀沼を見下す景色のよい高台であった。 十一、二歳(筆者注:大正6年当時は9歳)と思われる養女の菊子(ママ)さんがいて、一緒に遊び、とても利口なお嬢さんであった。 其菊子(ママ)さんに家庭教師が来て教って居る時は裁縫をしたり、散歩に行ったりしたが手賀沼を眺めて居ると、いつの間にか御伽噺の湖水に思いをよせて、飽きることがなかった。
 ランプに灯がつけば菊子(ママ)さんの布団を敷いたり、女中と三人で母屋とは別棟になっているオルガンの置いてある部屋で、話をしながら寝むるのであった。その女中の名もざらにない「ベン」というので今だに覚えている、オルガンのある隣りの室が武者先生の書生をしていた川島伝吉、金子洋文両氏がいた。 −中略− 「新しき村」の話が具体化して来たので一切を投げすて理想郷へ憧れ、発会式に我孫子に行き、来賓並に同志と記念撮影をとり、先発隊は一足早く土地を定めに出発し(筆者注・大正7年9月20日出発)、遅れて、夫人と菊子(ママ)さん私も旅立ったのである。
     
 『我孫子市史研究』第12号(昭和63年5月31日発行)所収

 以上、「大正六年の初夏」我孫子根戸の実篤邸にやって来た木村もと(注2)による手記からは、「喜久子の家庭教師」のことや、当時の実篤邸に暮らす人々の様子などがよくわかります。しかし、鈴木昇教員がどのような経緯で喜久子の家庭教師になったかについては、現在のところ不明です。
 
3)鈴木昇教員が喜久子の家庭教師をしていた「期間」について 
鈴木昇教員が、武者小路邸において喜久子の家庭教師をしていた期間について考えてみますと、上記二つの手記等から判断して、その始めは、「大正6年の初夏頃」かと推察されます。
次にいつまでか、という期日についてですが、大正7年9月15日「新しき村」への出発式後、「九月二十日には、彼達は我孫子の家を引き上げた」(『或る男』213より)とあります。 『武者小路実篤研究−実篤と新しき村−』(注3)の年譜によれば、9月23日東京発、浜松、松本、京都、大阪、神戸、福岡の各地で新しき村講演会をひらいた」とあり、また「浜松をすませて、彼達は福井の妻の実家にゆき、そこへ喜久子をあずけて北陸線で信州へ回って長野と松本でしゃべった」(『或る男』213より)ともありますから、房子も喜久子も、9月20日過ぎ頃には我孫子を離れていたものと推察できそうです。
以上から、鈴木昇教員が喜久子の家庭教師をしていた期間は「大正6年初夏頃から大正7年9月20日過ぎ頃まで」かと思われます。
 もしも、鈴木昇教員によるこの時期の記録(日記・書簡等)が残されてあれば、より具体的な年月日などがわかるかと思われますが。

4)岸田劉生に出会うこと − それは、鈴木昇教員にとって青春のピーク
「劉生に出会うことは誰にとってもその人生や青春のピークにあたっていたのではないか。人は生きて動いている劉生に出会うことで幸福になれるのだ。」
大変唐突で奇異に感じられる方もあるかと思います。しかし、熱烈な劉生ファンや研究者の中には現在でも本当にこう思い信じ、劉生の絵も人も、その魅力のすばらしさを他にも伝えたいと考えている人がいます。
 一昨年ある所で「劉生と京都」という講座を受講した際、個性光る劉生の絵画にひかれる人は多いが、「生身の劉生」という人間そのものにも魅力を感じた人達が多くいたことを知りました。
ですから、鈴木昇教員にとっても、劉生の絵画は勿論、「生身の劉生」そのものに出会った時の喜びと感動を、仲間の教師にも伝え自分の教え子たちにも触れさせたいと、強く願ったということが想像出来るかと思われます。
その「生身の劉生」の魅力について、ひとつには「角力をとる劉生」ということがあげられるようです。『岸田劉生日記』を読みますと、劉生は折あるごとに、また、興に乗れば誰とでも頻繁に角力(すもう)をとっていることがわかります。

5)『或る男』の記述 − 角力をとる劉生
大正7年9月15日、我孫子根戸の武者小路実篤邸で行われた「新しき村」への出発式の壮行会で、「皆で角力を取った」と『或る男』に記されています。この日の記念写真には、岸田劉生も妻蓁(しげる)と娘麗子共々写っています。
 ここからは、またもや(楽しい)想像になりますが、「壮行会」の日の一種独特な興奮の中、もしかしたら、鈴木昇教員もその場に居合わせ、角力をとる劉生の様子を間近に見て触れて、その生身の人間の魅力に感動していたのかも知れません。
いよいよ、隆盛期に入り「生きて動いている人間劉生」の魅力に捉えられたのが若き日の鈴木昇教員であったのかも知れません。
     
  夕日が雲に反射してそれが手賀沼を金色に染めた、あんな静かな、あんな美しさは彼(筆者注:実篤自身のこと)が二年近く住んでいても見たことがないほどであった。人々はその美しさにおどろきまた興奮した、彼はその珍しい美しさをその日の夕、特に恵まれたのを感謝した、彼の運命が暗示されているように思えた。   
                                『或る男』212  

 もしやという思いから、壮行会の記念写真の中に若い日の鈴木昇教員の姿をさがしてしまう筆者ですが、「夕日が雲に反射してそれが手賀沼を金色に染めた」美しさにおどろき興奮した人々の中の一人が鈴木昇教員自身であったかも知れません。
その日の感動を抱き続けて三年、機会を待ち、交流のあった志賀直哉に仲介を依頼し、劉生に我孫子尋常高等小学校で「話(講演)」をしてもらおうとしたのが鈴木昇教員であったと考えられないでしょうか。直哉もその熱意に動かされ、劉生を我孫子によぶことを請け合い仲介の労をとったということが想像できるようです。
「どちらかと言えば、梅原龍三郎の明るく、華やかな作品を愛し、劉生の暗い作品を熱愛はしなかったであろう」(注4)志賀直哉が、大正10年12月10日の実篤あての手紙で「岸田の人にも絵にも段々深い親しみを感じて来た」と書き送っています。
こうした志賀自身の劉生に対する微妙な気持の変化もあって、鈴木昇教員の願いに応えたのではないかということも考えられそうです。
『日記』や『書簡』から読み取れるこの時期の直哉と劉生との関係についてですが、二人の間に微妙な変化があらわれていたようで興味深いものがあります。
大正10年11月13日(日)の岸田劉生の『日記』には、「木下検二君が来て我孫子の学校で叉畫の教育の話をしてくれとの事。どうもこの問題で少し方々でやらされては困るが、志賀の処へも行き度いから承知した」などとあります。
また、この折の我孫子行きの事については、雑誌「白樺」(第13巻 大正11年1月号「製作余談」)に、岸田劉生が書き記していますので、御一読下さい。
  
6)一行の記述からドラマを読み取ること
 直哉の『日記』に「今日小学校の先生が来て喜んでゐた」と淡々と記されていますが、たった一行の表現の陰に、鈴木昇教員の劉生への熱い思い・憧れを感じ取る事が出来るのではないかと考えています。
 調査の糸口を見つけたら、そこから、たどり掘り下げてみて「白樺派と我孫子の人々」のドラマを直感し、推理することが可能だと思います。
今回のドラマ発見の糸口は、まさにこの短い一行にありました。

3.「大正10年、直哉の三通の書簡」と整合する『岸田劉生日記』の一日と
我孫子尋常高等小学校における岸田劉生の講演について
 ここで、我孫子尋常高等小学校で講演会の行われた一日の様子を『岸田劉生日記』から見てみたいと思います。               
 
 1)『岸田劉生日記』に描かれた鈴木昇教員
大正10(1921)年11月27日(日)  好晴
十時十五分の汽車で我孫子へ、十一時半頃着。車で志賀君の処へ行かうとしたら我孫子小学校の鈴木といふ先生に会ふ。志賀へ着、しばらく話してゐたら鈴木君が迎へに来て志賀も一緒に小学校へ行く。小学校では小供の畫の展覧会があってそれをみる。講演は大へんしんみりそして上手にしゃべれた。児童の畫の評もする。児童の畫の見方に(一面白い畫、二上手な畫 三面白くて上手な畫  四美的感化ある畫)の四つあり、この中第四が
本当に子供の畫として善いものと云へるがそれはまだ見られぬ、といふ事も考へたので話す。
 志賀の家へ帰る。柳も子供つれて来てゐた。 鈴木といふ人と、もう一人若い畫をかく人とも志賀へ来て、皆で話す。
 柳は五時すぎ帰る。 七時頃他の人も帰り、志賀と十時すぎ迄いろいろ話す。仕事の話も出る。 又怪物についてのいろいろの考察や話などもし合ふ。 志賀とこれ迄こんなにうちとけて、話した事はなく、大ヘンん気持よかった。
志賀の持ってゐる、宋畫の「蓮花と白鷺」大へんよろし。その他シュンキョの盛花支那畫の鳥、その他壺や支那の皿など大変美くしいものを沢山持ってゐる。皆感心してみた。新らしく出来た離れへ泊る。 十一時近くねむりにつく。
 
         『岸田劉生全集』第6巻(1979年5月10日発行 岩波書店)から

たしかに、『岸田劉生日記』には「我孫子小学校の鈴木といふ先生に会ふ」・「鈴木君が迎へに来て志賀も一緒に小学校へ行く」・「鈴木といふ人と、もう一人若い畫をかく人とも志賀へ来て、皆で話す」と鈴木昇教員について何度も記されています。
 その日の鈴木昇教員は劉生と共にいる喜びと感激とをもって、色々と劉生の世話をしたのではないかと推察します。 劉生にその名を何度も書いて貰っていることからも、劉生からも好印象をもって受け止められたのかもしれません。その日の鈴木昇教員の高揚した気分や様子が想像できそうな気がします。
子供達の絵の批評もしてもらい、教師としての喜びも一入のものがあったのではないでしょうか。鈴木昇教員にとり、嬉しくも輝かしい「人生あるいは青春のピーク」ともいえる一日となったと考える事が出来るかと思われます。
さて、講演が終了し志賀の家に戻った一行(柳も子供を連れて来ている)は、どのようなことを「皆で話」したのでしょうか。色々と想像をたくましくして、大変楽しいシーンではあります。
ところで、鈴木昇教員と一緒にその話の輪の中にいる「もう一人若い畫をかく人」の存在が気になります。この人はいったい誰なのでしょうか。
鈴木昇教員と同じ小学校の先生でしょうか。しかも、雑誌「白樺」の読者で劉生ファン、或いは「白樺派」信奉者で絵を描く若い教師、そう考えることは出来そうですが現在のところ人物の特定はできていません。

2)“もう一人若い畫をかく人”とは誰か−『我孫子第一小学校百年史』の記述から

森千代松先生と川村敏郎先生について
 その日の講演終了後、「鈴木といふ人と、もう一人若い畫をかく人とも志賀へ来て、皆で話す」とありますが、“もう一人若い畫をかく人”とはいったい誰をさすのでしょうか。
やはり我孫子尋常高等小学校の教員でしょうか。それならば、『我孫子市立我孫子第一小学校百年史』(注1)の中にヒントとなる記述はあるのでしょうか。
『我孫子市立我孫子第一小学校百年史』の中に「大正の新教育」という項目があり、「芸術教育」に偏りすぎるとしてお叱りを受けたという、絵画教育に熱心な森千代松先生や川村敏郎両先生の名前が見られます。

森千代松先生 − 「写生」・「よく画を描く人」
当時、小学校の図画にはなかった「写生」を授業に取り入れ、我孫子小学校の図画を隆盛に導いたという森千代松先生は、「自分でもよく画を描く人」とありますから大変気になる存在です。森先生に関するキーワードは、「写生」・「画を描くひと」となりますから、岸田劉生の絵や人間に強い憧れと興味を持つ、「もう一人若い畫をかく人」の最有力候補と目されそうです。
鈴木昇教員は大正11年の春ころ、他校へ転任になっていますが、森千代松先生は「戦時下の教育」(昭和5年頃)の項にもその名が見られます。
 
 森千代松先生も、おっかない先生であったが、その代わり勉強には熱心でことに我孫子小学校の図画を隆盛に導いたのは、森先生に負うところが大きい。

川村敏郎先生 − 「画が好き」・「白樺」に興味を持っていた人
次に川村敏郎先生のことですが、『百年史』によれば、「先生も画が好き」という記述があります。 また、「白樺」に興味を持っていた人であることが、『武者小路実篤全集』「月報」(注2)の記事に書かれていました。
「我孫子小学校の生徒だった小熊勝夫さん(注3)は、「白樺」に興味をもっていた川村先生から、武者小路邸にロダンの「ゴロツキの首」(注4)があるのを聞き、房子夫人の髪結いに頼んで見にいった事がある。何とも奇妙な鉄の固まりの記憶をもっている」とあります。
また、「図録 手賀沼を愛した文人展−白樺派と楚人冠たち」(1992年10月発行 朝日新聞)所収の〈対談 砂川七郎・小熊勝夫〉に、やはり川村敏郎先生のことかと思われる次の記述があります。

 ある日先生から武者さんの家にロダンがあるというので山の中を通って見にいきました。
陽当りのよいオルガンのある部屋におかれた彫刻を見て、上品なお菓子をもらって帰りました。
 
しかし、相対する直哉と劉生の『日記』・『書簡』にもその固有名詞が登場していないので、その人物を確定することは出来ません。これら二つの中に『百年史』と整合する記述の片鱗も見つからないので、現在のところは人物の特定は残念ながら出来ないのです。

もしも、関係者のお話が伺えたら
こうした場合、森千代松先生や川村敏郎先生の関係者のお話を伺うことが可能であれば、「もう一人若い畫をかくひと」について、あるいは、「鈴木昇先生」についても御教示いただけるのではないかと思われます。
また、この件に関する研究をされている方々のお話を聞く機会があれば、本調査がより真実に近づくことも出来るのですが。
 「白樺派」・「白樺なるもの」に近づき、影響を受けた三人の先生方のその後の人生に、どのような輝きを灯し続けたのか。あるいは、逆に、関わったが故に暗い局面に立たざるを得なかったことがあったのか、ということも含めて学べたら良いと考えています。

3)我孫子尋常高等小学校における岸田劉生の講演内容を推測する
   「美的感化ある畫」とは − 『図畫教育私見』(講演)から
当日の『岸田劉生日記』には、「小学校では小供の畫の展覧会があり」、「児童の畫の評も」し、特に「美的感化ある畫」が本当に子供の絵として善いものであるが、それはまだ見受けられないということを話したとあります。
そこで、これらの記述を手掛かりとして、特に「美的感化ある畫」に関する事項を『図畫教育私見』(講演)の中から探してみたいと思います。
 幸いにも、『岸田劉生全集』第10巻(1980年1月23日発行 岩波書店)に大正10年6月28日、東京高等師範学校附属中学校でなされたものであろうとする『図畫教育私見』(講演)が収載されています。これについては、『全集』中の「後記」によると、大正10年10月『教育研究』第229号に、「講演」の大見出しを掲げて掲載されたものだと解説されています。
ですから、同年の11月27日に我孫子尋常高等小学校で行われた「講演」の内容についても時期が大変近いこともあり、ほぼ同様のものと考えて良いのではないかと推察されます。
そこで、『図畫教育私見』(講演)の中から、特に「美的感化ある畫」にかかわると思われる記述を取り上げ、我孫子尋常高等小学校で行われた「講演」の内容のいくばくかを推測してみようと思います。
         
「図畫教育私見」(講演)より

今日はどうも美の問題が、軽んぜられて居るやうに思ひます。面白いと云ふこと以上に、世間の人は頓着しませぬが、此の事はもっと能く考へられなければならぬと思ひます。
而して美は人間の徳性の根本ではないかと思ひます。
人の感情を美しく美化して行く、さう云ふ風にして行けば、道徳や何かを外から強ひないでも、内から段々と自然に感情が美化されて、外から強ひる迄もなく、其の人の性質が良い方に向くやうに考へられます。
 そこで教育の根本としては、感情の美化と云ふことを考へなければならぬ。子供の感情を荒く−何と云ふか粗野にしないで美しいものにする。 子供の内部から美の芽を生やして、それを成長さして、段々自覚したものにして行く、斯う云ふことは図畫とか、さう云ふ事と非常に関係があります。無論他の知育も必要でありませう、なくてはなりますまいが、先づ第一に美的教育を施すが必要でないかと思ひます。申す迄もなく美と善との関係は、密接だらうと思ひます。

子供の感情を、美的に導いて、美しいものに触れさして、美しい物を憧憬さして喜ばせ其処に進んで行きます事は、国民を作る上に非常に大切な、基礎になるのではないかと思ひます。
 美的の感情と云ふもの、美感の種類にも、唯綺麗とか、なかなか綺麗とか、或感じが
常に深い、美しいと云ふやうに色々な階級でありますが、一番の極地は、永遠性との合致と思ひます。永遠の感じを形に表はせば、それが美の極致となる。例へば山の地平線の線に現はれます美感は、静寂其のものであります。非常な深い幽幻な永遠を思はせるやうな感じが致します。若し人間の心が常にさう云ふ風に感情が向って居れば、決して主我的になったり、又は汚い事をし、余り卑劣な事を謀ったりすることは出来ないと思ひます。
 美的教育と云ふのは、其の美に子供の心持を引付けて、子供の感情を美化して行く、其の子供の感情の美しいものを育てて行く、さう云ふ風に感情を段々醇化して行く事と思ひます。

関連の記述を抜粋引用した上記の内容から見て、「美的感化」とは次のようなことだと言っているのではないかと想像されます。
 
美的教育の根本は、子供の感情の美化にある
「美は人間の徳性の根本」・「子供の感情を、美的に導いて、美しいものに触れさして、美しいものを憧憬さして喜ばせ其処に進んで行きます事は国民を作る上に非常に大切な、基礎になる」・「美的教育と云ふのは、其の美に子供の心持を引付けて、子供の感情を美化して行く、其の子供の感情の美しいものを育てて行く、さう云ふ風に感情を段々醇化して行く事」で、「斯う云ふことは図畫とか、さう云ふ事と非常に関係がある」のだというのが、「講演」の内容の主なるものではないかと推測されます。

美術や絵による真の徳育の重要性を説く
 岸田劉生は、我孫子尋常高等小学校における講演で、おそらく、「児童の感情の美的感化」と「図畫」との関係ということを主なテーマとし、最も大切なことは「美術や絵による真の徳育」であるというような内容のことを話したのではないかと考えられます。

『図画教育論−我子への図画教育』について
大正10年頃から、「図画教育」について岸田劉生の中にあったものがまとめられ、大正14(1925)年5月劉生35歳の時、改造社から『図画教育論−我子への図画教育』が出版されました。
 『図画教育論−我子への図画教育』について、松本育子氏の解説(注5)によれば、「図画教育の目的を『児童の感情の美化にある…かくて図畫教育の第一の目的は必ずしも美術や絵を教へる事ではなく、美術や絵によって真の徳育を施さんとする事である』と定義し、当時の実用主義で情操を育てようとしない図画教育への批判を行い、人格的薫育に最も有効な教育としている」とあります。
 

4.記憶と記録
我孫子尋常高等小学校と「我孫子在住白樺派」との交流についてのもう一つの事例 
− 村上智雅子氏の調査報告書「或る一冊の辞典をめぐって」から

           村上智雅子氏提供   

小学校の卒業式に志賀直哉・柳宗悦らが贈った「漢和大字典」
 ところで、我孫子尋常高等小学校といえば、大正6(1917)年3月24日の卒業式に羽織袴姿の志賀直哉と柳宗悦が、三省堂漢和大字典を二人の優等生に贈ったという逸話が残っています。

 柴崎の湯下昌恒さん宅には、一冊の辞書が大切に保管されている。大正5年三省堂発行の漢和大字典。総頁2000ページ、定価は3円。表紙を開くと「贈輿 文学士柳宗悦、文学士志賀直哉」の文字が記されている。 −中略−  大正6年3月24日、我孫子尋常高等小学校(現在の第一小)では、尋常科の卒業式が行われた。この年の卒業生は57名。そして式には、先生方と並んで羽織、袴で威儀を正した志賀直哉と柳宗悦が参列していた。やがて湯下恒雄、渡辺多美子両名の名前が呼ばれ、2人に辞書が手渡されたという。

  
             「卒業式に贈られた辞書 そこに志賀、柳の名が」
( 広報「あびこ」昭和63年1月1日 掲載 )より

この事例によって以前から、この小学校と「我孫子在住白樺派」との結びつき(交流)があり、彼らも地元小学校への貢献という意識を持っていたことが考えられます。
ところが、その後この大字典の所在が分からなくなっていましたが、白樺派研究家村上智雅子(むらかみ ちがこ)氏により、その所在が調査確認され、その経緯が報告書「或る一冊の辞典をめぐって−志賀直哉・柳宗悦より贈られた「漢和大字典」−」(注1)にまとめられました。
 こうした事例の発見・発掘は勿論のこと、一歩進めて「我孫子在住白樺派」が地域に何を残し、人々にいかに受け入れられたかを探求するのが、「白樺派と我孫子の人々」の調査研究の最も重要な目的と言えます。
村上氏もその調査報告書の中で、その辞典を贈られた小学生が「あの大作家に戴いたものだからと言って、青年時代その辞書を引き引き『暗夜行路』を読みつないだそうである。柳宗悦がもしこのことを知ったら、随分喜んだに違いない。器は使われてこそ美しいと提唱した民芸の人であったから」と分析し解説され、その交流が地元の人々の心に遺したものがいかなるものであったかに触れています。

「白樺派」による児童の情操教育への関心と貢献
 志賀直哉も柳宗悦も大正6年当時から、我孫子町の学校への関心・貢献の意識を持ち、大正10年当時はすでに幼い娘や息子達の父親として、児童の情操教育への関心を持っていたのではないかと考えられます。
 『図画教育論−我子への図画教育』もそのタイトルが示すように、岸田劉生が学齢に達した愛娘麗子のための図画教育の模索から始まったものである(注2)とされています。
この時期の志賀直哉も柳宗悦も、そして岸田劉生も子供の教育への眼差しという点において、共通していることが見て取れます。

地域遺産としての「白樺派と我孫子の人々」に関する調査研究資料
 「漢和大字典」のことも、劉生が自ら創造した「図画教育」の講演をしたことも、一つひとつが点に過ぎないのですが、これらの点を発掘し繋げ「白樺派と我孫子の人々との交流のドラマ」が、埋もれることのない地域遺産(確かな記録)としてのこされ、伝えられて行くことを心から願うものです。
志賀直哉の作品はもとより、『日記』や『書簡』を丹念に読み込むことで、様々な情報やヒントが得られ、たった一行の記述に生命が吹き込まれることがあります。
時には幸運にも作品解読のための手がかりにもなり、作品のモデルが解明されたりもします。その作品と同様に、多くの説明をしない簡潔な直哉の『日記』ではありますが、その背景にあるさまざまな事柄や、ドラマなどを推理し想像する楽しみがあると思います。すなわち、当時の「我孫子在住白樺派」と交流のあった地元の人々の行動と思いについて、理解する方法がここにあるかと思われます。
もちろん、ここに言う推理とは、文献資料や聞き取り調査等で得たデータを基にし、充分な推考がなされたものということで、いたずらに想像のみに終始したものであってはなりませんが。

記憶と記録
 ただ、現時点において完璧な実証が得られない場合、些細な記憶の断片に過ぎないとして捨て去ってしまったとしたら、永久に「交流の事例と受容」の証明をすることが出来なくなってしまうでしょう。
どんなに小さな記憶の断片をも取り上げ、保ち続けること、そして、それらの発掘と記録との作業を継続することのいずれもが、重要で不可欠なことであることは言うまでもありません。


  後記

「志賀直哉と我孫子の人々」というテーマで調査を始める以前から、品田制子氏の筆になる『妻たちが見た「白樺派」の我孫子生活−“房子”と〈兼子〉を中心に−』は何度も読んでいました。
なかでも、特に筆者が関心を持ったのは、「鈴木昇教員」と「岸田劉生」に関する記述でした。そのデータからは、大正6,7年頃、鈴木昇教員が武者小路実篤夫妻の養女喜久子の家庭教師をしていたことを知りました。さらに、同じ頃、岸田劉生が武者小路実篤を慕って、我孫子にやって来ていたことにも思い至りました。
それならば、鈴木昇教員と岸田劉生との間にあったかもしれない「ドラマ」を書いてみようと思い立ちました。 その二人の間にいたのが志賀直哉で、劉生に会いたいという鈴木昇教員の願いを叶えるべく、地味な脇役に徹しながらも一肌脱いだ直哉像がうかがえるのもこの「ドラマ」の面白いところかと思われます。
従来、「我孫子在住白樺派」と我孫子の人々の間には、殆ど結びつき(交流)が無かったといわれています。しかし、少しでも「交流」の事実が認められたことについては、書き残しておこうと思いました。
ただ、全てが実証されるわけではないので、単なる仮説や伝承に終わる可能性もあります。それでも、なお残さなければと思うのです。  
 一昨年、ある所で「劉生と京都」という講座を受講しました。その講座の講師が言った「生きて動いている劉生に出会うことで幸福になれるのだ」という言葉が印象的でした。そして、そう言う講師自身がそれを実にまじめに情熱をもって信じていることが、より強く印象に残っていました。
   それ以来、筆者の中に「強烈で、人をひきつける才能と個性」としての劉生像が居座っていました。本稿の主役である、鈴木昇教員も「白樺派」・「白樺なるもの」の洗礼を受けた一人であったと思われます。では、この場合、岸田劉生という個性に出会ってしまった鈴木昇教員は劉生の何に憧れ、そして何を望み、どう実行しようとしたのでしょうか。
つまり、筆者自身が「鈴木昇教員」の立場であったらこの場合、果たしてどのような行動をとるであろうかということの試論になりました。
ただ、教育者としての鈴木昇教員だけではなく、そこには、あの時代を生きた鈴木昇教員個人の思い・憧れまでを掬い上げるということを心がけました。
その時、おおいにヒントとなるデータを提供してくれたのが『妻たちが見た「白樺派」の我孫子生活』であったというわけです。
データのみならず、品田氏の文章が持つパワー、そして自制心がきいた筆の勁さが筆者を動かしました。生意気なようですが、この20年前に書かれた『妻たちが―』は、色あせない「我孫子在住白樺派の記録」の一つであると思っています。
   また、もう一つ村上氏の調査報告書「或る一冊の辞典をめぐって―」も、「我孫子在住白樺派」が当時の児童の心に灯した「白樺なるもの」への希望・憧憬の姿までを写し取っている点、やはり貴重な「記録」であると思います。
   最後に本稿は、鈴木昇先生・森千代松先生・川村敏郎先生の関係の方々への聞き取り調査などが出来ないまま、文献資料のみに頼って書いたものです。
それ故、筆者にとって今一つ実感が希薄なものになり、正直なところ危うい試論に過ぎないものとなってしまいました。
 いつの日か、縁あって御遺族の方々にお目にかかり、想い出話などお聞かせいただける日のあることを祈っています。 その上で、鈴木昇先生の実像により近づき、本稿における「ドラマ」の真実性をより確かなものとしたいと願っています。


注記

1.“小学校の先生”と志賀直哉、そして岸田劉生を結ぶドラマを直感し推理する
(注1)『妻たちが見た「白樺派」の我孫子生活−“房子”と〈兼子〉を中心に−』:
品田制子氏執筆 「我孫子市史研究」第13号(平成元年3月31日発行)所収

(注2−1)明治42年千葉県師範学校卒業 東葛飾郡千代田尋常高等小学校訓導となる:
『千葉縣師範學校一覧』(332n参照 大正3年12月25日発行 千葉縣師範學校)より

(注2−2)昭和14年〜昭和17年 学校長を務める:平成20年9月16日、千葉市立誉田(ほんだ)小学校へ問い合わせをし、鈴木昇教員が、「昭和10年3月31日から在職し、昭和14年から昭和17年学校長を務めた」ことを確認した。

(注3)雑誌「白樺」における活躍にも目覚ましいもの:岸田劉生の挿画掲載点数は37点で11位、掲載回数は13回を数え7位を占め、雑誌「白樺」に載った日本の作家としてはどちらもトップとなっている。
評論家・元横浜国立大学教授木下長宏氏による講演会資料 『白樺』挿画ベスト20
(調布市武者小路実篤記念館 開館20周年企画特別展「白樺とロダン」記念講演会 
「『白樺』の西洋美術紹介」平成19(2007)年3月2日実施)より

2.鈴木昇教員の岸田劉生への思いと憧れ
(注1)『岸田劉生日記』:『岸田劉生全集』(全10巻 岩波書店 1979−1980)そのうち日記にあてられているのが、第5巻から10巻である。この分は装いを変えて『劉生日記』(全5巻)として1984年刊行されている。大正9(1920)年の元旦から書き始めて、その後一日も欠かすことなく、大正14(1925)年7月9日まで書き続けた日記である。

(注2)木村もと:木村荘太夫人。木村元子。木村もとの手記には、「手賀沼の辺りには、志賀氏、柳氏も居られ木村も一時百姓家の二階を借りて、翻訳の仕事をしていた」とある。
また、木村荘太については、「翻訳、随筆を書き絶筆は「魔の宴」という自伝小説を書いています。谷崎潤一郎と新思潮という雑誌を創刊した人であとで「新しき村」に入った方ですが、成田公園で自殺をされました」とある。
小熊勝夫執筆「武者小路実篤と木村もと」(我孫子市史研究 第12号 昭和63年5月31日発行 所収)より 

(注3)『武者小路実篤研究−実篤と新しき村−』:大津山国夫著  平成9年10月15日発行 (株)明治書院 

(注4)「どちらかと言えば……」:三輪福松執筆「劉生が「白樺」に記した思い出」
(「清春」劉生特集 清春白樺美術館開館一周年記念号 1984年4月17日 所収)より

3.「大正10年、直哉の三通の書簡」と整合する『岸田劉生日記』の一日と
  我孫子尋常高等小学校における岸田劉生の講演について
(注1)『我孫子市立我孫子第一小学校百年史』:我孫子第一小学校創立百周年祝賀協賛会会長小熊勝夫 昭和48年3月11日発行 ダイヤモンド社制作

(注2)『武者小路実篤全集』「月報」:兵藤純二執筆「我孫子根戸の武者小路実篤」
(『武者小路実篤全集』第3巻 月報3 昭和63年4月10日発行 小学館 所収)より

(注3)小熊勝夫(おぐま かつお)さん:明治40(1907)年 千葉県我孫子市に生まれる。
我孫子市文化財審議会委員長、我孫子市史編さん委員、我孫子市史研究センター会長を務めた。

(注4)ロダンの「ゴロツキの首」:ロダン作「巴里ゴロツキの首」のこと  白樺同人は、早くからロダンに注目し、明治43年4月に創刊した『白樺』は、その11月に「ロダン号」を発行。創刊前から企画していたこの特集号のために、同人がロダンへ手紙を送り、ロダンとの交流が始まりました。ロダンの願いにより浮世絵を贈り、ロダンからはかれの三作品「ロダン夫人の胸像」「或る小さき影」「巴里ゴロツキの首」を贈られました。西洋近代美術作品の本物がまだ日本に殆ど入らなかった当時、画期的な出来事として、白樺同人のみならず、多くの人々に感動と衝撃を与えました。
調布市武者小路実篤記念館開館20周年企画特別展「白樺とロダン」
2007年2・10〜3・21実施パンフレット解説より

(注5)松本育子氏(刈谷市美術館学芸員)の解説:「岸田劉生の『図画教育論−我子への図画教育』に関する一考察」(「図録 画家 岸田劉生の軌跡」編集発行 笠間日動美術館 2007年 所収)より

4.記憶と記録
(注1)「或る一冊の辞典をめぐって−志賀直哉・柳宗悦より贈られた「漢和大字典」−」:
村上智雅子氏講演資料(我孫子の文化を守る会・放談くらぶ 平成17(2005)年4月3日 於我孫子市アビスタ)

(注2)3章の(注5)と同じ