志賀直哉と東隣の嶋根家との交流


志賀直哉と東隣の嶋根家との交流  
(志賀直哉と嶋根久次郎の交流)

目次
1. 嶋根家のプロフィール 
2. 志賀直哉の作品に登場する嶋根家−「私の両隣りは農家だった」
3. 志賀直哉の『日記』に見る嶋根久次郎
   嶋根家「香奠帳」を拝見する−志賀直哉から三円の香料  
4.志賀直哉から貰い受けた美術品について
5.我孫子を去る志賀直哉から嶋根家への御礼の品について   
今後の調査事項
6.その他
我孫子の誇り−嶋根家の椿の木
    嶋根家の奥様(房子さん)が教えてくれた、椿の木についてのいいお話
    左近司詩子さんが語る椿の木の思い出
7.嶋根家の屋号「久左衛門(きゅうざえもん)」に寄せる現当主嶋根久直氏の思いとは

 

1.嶋根家のプロフィール

屋号(注)は久左衛門(きゅうざえもん) 本陣(小熊家)のお手伝いをしたという由緒ある御家柄  代々の米農家  菩提寺は 大光寺(我孫子市緑) 

嶋根久次郎(しまね きゅうじろう)→ 薫(かおる)→ 久直(ひさなお)(現当主)
二代前の嶋根久次郎が志賀直哉との交流がありました。

『志賀直哉全集』第16巻「日記人名注・索引」には、
島根久次郎 ?− 大正11・12・1  我孫子の志賀家の隣人。 詳細未詳。
となっています。

*屋号(やごう):『我孫子の生業』から  「昔は姓名に変えて、屋号を呼ぶ風習があった。特に農村には、このような習慣が強く今も言い継がれている」
          『郷土あびこ4 我孫子の生業』(我孫子市史研究センター 1982年11月23日発行)

 

2.志賀直哉の作品に登場する嶋根家 − 「私の両隣りは農家だった」

志賀直哉の『日記』、大正11(1922)年8月16日から9月5日までの記述によると、直哉は坐骨神経痛の後養生のため、一人で草津温泉に滞在していることがわかります。
 大正11年の冬は弁天山の庭の土が一尺も凍り、鍬が通らず鶴嘴で掘らねばならないほどで、その寒さの為に直哉は坐骨神経痛になってしまいます。
そのため、春には家族や使用人を伴い箱根強羅温泉へ養生に出かけています。80日間寝たきりとなり、回春堂の荒井医師に座骨神経痛の治療で大変な世話になります。
そして、その年の夏、今度は一人で後養生のため草津温泉に出かけ、その折のことを『矢島柳堂(白藤)』や『草津温泉(二度目の草津)』に描いています。

『草津温泉(二度目の草津)』

前の時から(筆者注:学生時代)、十八年経って、大正十一年の夏、今度は私一人で草津に出かけた事がある。千葉県の手賀沼の岸に住んでゐる時だったが、その冬は珍らしい寒さで、地下一尺まで完全に凍って了った。丁度、植木屋を入れてゐたので、偶然、それを知ったのだが、土がまるで石のやうになって、普通の鍬では全然刃がたたず、鶴嘴で漸く堀り崩してゐた。
かういふ寒さは人体にもこたへるらしく、私はそれまで経験した事のない坐骨神経痛を煩ひ、非常な苦しみをした。八十日間寝たきりで、起きた時には我れながら変な気がする位に足が細くなってゐた。草津行はその後養生の為めだった。

『志賀直哉全集』第9巻(1999年 8月6日発行 岩波書店)より

『草津温泉』(二度目の草津)(昭和30(1955)年6月発行「心」に発表)には、この後
温泉の宿帳に書く名前、住所、職業を順番に尋ねられる場面になります。「私」は『暗夜行路』の前編を新潮社から出したばかり(注)であり、すでに十年以上、雑誌などに何か発表しているので、自惚れていたが、番頭に「で、お職業は?」と訊かれ、不意を食って直ぐ返事が出来ないでいると、「矢張り農で……?」と言われてしまいます。

「千葉県東葛飾郡我孫子町字新田(ちばけん ひがしかつしかぐん あびこまち あざしんでん)といふので、実際、私の両隣りは農家だった」

          *「暗夜行路」前編:大正11(1922)年7月、直哉39歳『暗夜行路』前編を新潮社から刊行。発行部数3500部。題せんは犬養健。

 

3.志賀直哉の『日記』に見る嶋根久次郎         

*『日記』には【島根】とある

大正11(1922)年12月1日     金      L78(13巻78n)
夜離れに寝る、
夜中時々人通りあり、

大正11(1922)年12月2日   土      
康子買物の為め上京、  三時頃かへる、
自分  寿々子  婆やと留守番、
滝井   児玉来る、
前夜隣りの島根久次郎心臓まひにて不意に死す、
前夜九時頃一寸ミゾレする時、 よそから帰り暫くして死せる由、
子供等、 井戸の中に向かって「チャン還ってお呉れえ」と
呼びもどしてゐたとの事、
 
現御当主の久直氏は、祖父久次郎の死の様子について、上記『日記』の通りと聞いていると証言されています。

嶋根家「香奠帳」を拝見する−志賀直哉から三円の香料
さて、白樺文学館は、平成19(2007)年5月18日、初めて嶋根家を訪問し、久次郎葬儀「香奠帳」を拝見。 大正11年12月3日付けの「香奠帳」には、志賀直哉が三円の香料を贈っている記述があります。
ただし、大正11(1922)年12月3日の直哉の『日記』には葬儀の様子などの記述はありません。

 

4.志賀直哉から貰い受けた美術品について

嶋根久次郎が、直哉から貰い受けた美術品数点が、薫氏の代まで嶋根家には所蔵されていたが、戦後のどさくさに、考古学博士を名のる男(名刺まで持参)に鑑定をしてあげるからと騙され、とられてしまい、今では何も残っていないとのことでした。
直哉からもらったという花生けの壺(首が長い)に、お月見の時などにススキをいけて使用したと聞いているとは、奥様のお話。

 

5.我孫子を去る志賀直哉から嶋根家への御礼の品について

「手帳」(「手帳16」『志賀直哉全集』補巻六 2002年 3月5日発行 岩波書店)のメモには、志賀直哉が大正12年3月2日我孫子を去るにあたり、嶋根家に「最中一円」を贈っていることが記されています。
今後の調査事項
しかし、これらの事実だけでは今一つ、嶋根家と志賀直哉との交流の実際と久次郎の人物像が不明瞭な感じがします。
隣人として、嶋根家から志賀家に対する日常的な援助はおおいにあったと想像されるのですが、その実態がつかめていないので、この点については、今後の調査としたいと思います。

 

6.その他

我孫子の誇り − 嶋根家の椿の木
 我孫子の誇りとも言うべき、嶋根家の三本の椿の大木について語るには、先ず、中勘助(注)が作詩した「椿」を取り上げたいと思います。

椿
わしがとこから五ちょべえくれば
音に名だかい久兵衛さんの椿
まはり六尺背は二十二尺
二百三百しん紅にさいて
おちたその実が目笊に五百
安いときでも一両二分にやなるとさ  

中 勘助著 『沼のほとり』 大正10年4月21日より

*中 勘助(なか かんすけ):明治18・5・22−昭和40・5・3 小説家。詩人。東大国文科卒。夏目漱石の推薦で、『銀の匙』が「東京朝日新聞」に連載され、作家として認められた。大正9年、我孫子に移転し(高嶋家に寄寓・現 我孫子市白山)、志賀直哉と交際した。大正11年直哉の『日記』に34回登場。
            『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」・『大正期 我孫子在住の作家たち』(兵藤純二著 我孫子の文化を守る会発行1979年3月31日 崙書房)より

志賀直哉や中勘助が、我孫子に在住した当時の椿の姿をうかがい知る良い資料として、秋谷半七著『手賀沼と文人』(注)「中 勘助」の項に次の記述(下線部分)があります。

 当時、勘助氏の家から、およそ七、八分のところに志賀直哉氏が住んでいた。したがって二人の間にはかなりの行き来があった。このことは直哉氏の日記で明らかである。しかし不思議なことに、中氏の「沼のほとり」には直哉氏のことは全然書かれていない。ただ志賀邸の隣家の椿の大木をうたっているだけである。この椿はかなり年数をへた古木で、今も屋敷の中から垣根を越し、路をおおって沼の方へのびている。この赤い椿は、非常に深みのあるもので、ここを通る人々に愛されている。勘助氏は特にこの椿が好きであった。

また、《謎》とされていますが、上記のように足繁く通い交際のあった志賀直哉については『沼のほとり』に登場させていず、この志賀邸の隣家にある椿の大木をうたっていることに触れ、二人の文学者の関わり方を見つめる秋谷氏の人間観察には鋭いものが感じられます。

*『手賀沼と文人』「中 勘助」秋谷半七(あきや はんしち)著 (1978年8月発行)
崙書房

嶋根家の奥様(房子さん)が教えてくれた、椿の木についてのいいお話
前の家を建て替えたのは、成田空港開業の時であったからちょうど30年前になる(平成19(2007)年5月18日インタビュー実施)。
それよりも前に、椿の木はアメリカシロヒトリが原因で3本とも枯れてしまったが、知り合いがその木を使って火鉢を1個こしらえた。 椿の木は無くなってしまったが、今でも形を変えて残っている。
椿の大木は嶋根家の人々や、当時を知る人々の心の中で力いっぱいその枝を張っている。
一度、樹木医にみて貰ったことがあるが、樹齢は400年とも500年とも、あるいはそれ以上であろうとも言われた。

左近司詩子さんが語る椿の木の思い出
子供の頃、嶋根家の椿の木に登って遊んだ経験を持つ左近司詩子(さこんじ うたこ)さん(嶋根家の東隣に50年余居住)のお話。

  子供の頃、三本の木を伝って遊んだことをよく覚えています。今では懐かしい思い出となりました。当時は、子供だったので、とても大きくまた高く感じられたものでした。
  実際高い木であったので、道を通る大人の人達が「気をつけるんだよ」と声をかけてくれたものでした。
椿の花の蜜を吸って遊んだものでしたが、とても甘かった記憶が蘇ります。           
椿の木との縁を感じ、このような思い出を持てることはとても幸せなことだと思っています。

 

7.嶋根家の屋号「久左衛門(きゅうざえもん)」に寄せる現当主嶋根久直氏の思いとは

なお、中勘助の詩「椿」の中の「久兵衛」という呼び名(屋号)について、嶋根家の現当主である久直氏は当家としては、「とうてい受け入れられないものである」とその心情を話されました。
先ず、「久兵衛」という屋号は我孫子に有るが、それは別の家の呼び方であること。
そして、現在はこの屋号「久左衛門」については、嶋根久次郎の先代までで使用することを止めたが、先祖代々守って来た屋号について間違えて取られることはどうしても、納得し難いものがあるということでした。(写真は左近司氏から提供されました)