志賀直哉と西隣の津川家との交流


志賀直哉と西隣の津川家との交流
志賀直哉と津川三蔵の交流

目次
1. 津川家のプロフィール
2. 志賀直哉と交流があった津川三蔵について
3. 志賀直哉の『日記』・『書簡』に見る津川三蔵−志賀家の飼い犬と廃犬届について
4. 『十一月三日午後の事』最後部における【隣の百姓】のモデルは津川三蔵
5. 志賀直哉の『日記』に見る鴨を買いに行くこと
6. 作品に見る本願寺沼(ほんがんじぬま)の自然描写の比較−『十一月三日午後の事』と草稿『散歩』から
7. 柴崎の鴨屋のことと本願寺沼における鴨猟について(小熊興爾氏に聞いたお話を基に)
8.〔未定稿166〕に見る志賀直哉と津川三蔵の日常風景
9.途切れなかった志賀直哉と津川家とのきずな
津川家に伝わるエピソード
「我孫子の津川さんお元気ですか?」−昭和12年(13年とも)のラジオ放送から
10.三日我孫子へ弁当持ちで出かけるつもりの所………
11.奈良在住の志賀直哉から贈られた香料二円
12.志賀直哉が津川家に贈った名前入りの「大風呂敷」を白樺文学館に寄託

1. 津川家のプロフィール

屋号は 徳次郎(とくじろう)   農家(半農半漁)
菩提寺は 興陽寺(我孫子市白山)

津川徳蔵(初代・とくぞう)・たみ ― 三蔵(さんぞう)・ます ― 寅吉(とらきち)・てる ― 正明(現当主・まさあき)・徳枝(とくえ)

津川家については、『志賀直哉全集』第16巻「日記人名注・索引」には取り上げられていません。

 

 

2.志賀直哉と交流があった津川三蔵について

津川三蔵(つがわ さんぞう)は、明治25年10月2日生まれ。大正3年妻ますと結婚。(ますについては、「志賀家と津川ます その1・その2」で紹介します。)
二人は実子に恵まれず、親戚から寅吉・てる夫婦を養子に迎え、昭和13年1月4日待望の初孫徳枝(とくえ)さんが誕生します。
代々半農半漁でしたが、三蔵は猟銃を使ってのハンターでもあり、猟犬を飼っていました。馬を使っての荷物運搬業もしていたので、経済的に豊かであったようで、新しいもの珍しいもの好きの三蔵は、当時まだ珍しい自転車・ラジオを所有していたとのこと。
大変な子(孫)煩悩であり、世話好きで、筆まめな人でもあったという。
この筆まめであることについてですが、筆者は津川徳枝さんから、徳枝さんの初節句の御祝いに、近隣あるいは親戚などから贈られた金品を書き記した「和紙に書かれた目録」(表題「昭和十三年一月十一日祝ス」)を見せていただいたことがあります。
三蔵の筆によるメモは実に細かくしっかりと記され、70年後の今日も墨痕鮮やかに書き残されているものでした。
初節句の贈り物をした人達の中に、宇田川三之助(三造)の名前も見えます。筆者にとっては、志賀直哉の代表作『和解』の中の登場人物「船頭の三造で志賀家の使用人」が、ごく自然に津川家と交際があった近隣の人として、目録に載せられていることが何とも不思議なものとして目に映ったものです。
また、もう一つ、津川家に残されている津川家「香奠帳」(昭和2年3月12日・施主三蔵)には、津川家初代当主津川徳蔵の葬儀に際し、香料を贈った人々の名前が書き連ねられています。その中には、志賀直哉の名は勿論のこと、「志賀邸の茶室風書斎を建てた名人鷹大工」こと佐藤鷹蔵の名が、近隣の人々の名前と共に記されているのを発見したことも驚きの一つです。 やはり、このことも津川家にとっては普通のことであり、当然のことなのでしょう。
これらのことから、志賀直哉や他の我孫子在住白樺派と交流のあった我孫子地元の人々の「記憶や言い伝え」を持つ最後の人物として、津川徳枝(つがわ とくえ)さんの存在は大変貴重なものがあると思われます。
また、この「目録」はこの時代・この土地に伝わった雛の節句(長女・初節句)の習慣が良く分かり、民俗資料としても貴重なものがあると思われます。徳枝さん自身も、そのことを良く認識されていて、その保存管理には大変気をつかっていらっしゃいます。70年前から80年前に書かれた和紙の目録には、虫食いの跡一つありません。
最後に、徳枝さんのお祖父さんにまつわる記憶あるいは言い伝えとして、「三蔵お祖父さんはよく庭の縁台で煙草をのんでいた」と周囲の人達からよく聞かされたものだと言われます。この三蔵の日頃の習慣について、志賀直哉が〔未定稿166〕に書き記していることを発見したのは、嬉しい驚きでした(後述)。
津川三蔵は昭和23年、58歳で亡くなりました。

 

 


3.志賀直哉の『日記』・『書簡』に見る津川三蔵 − 志賀家の飼い犬と廃犬届について

 直哉の『日記』に見る【隣家の人】は、津川三蔵であり、明確、具体的な役割を担って登場します。それ程、三蔵は志賀家とは近い位置にあったと考えて良いかと思われます。

大正11(1922)年2月5日   日   L15 (『志賀直哉全集』13巻15n)
晴     温
篠崎かへる、
その前写真をうつす、
「楊子」かういふ短編を想ふ、
ユーモラスなもの、その内書くつもり
朝 隣家の人来る 一時間程話して行く 廃犬届(注)の事を頼む、
夜康子少し熱、 大した事なし、
十一時頃より仕事、
神経痛いたむ、
〔発信〕中根
〔受信〕園池

【隣家の人】は津川三蔵ではないか、そして「廃犬届」について

* 「廃犬届」とは:飼い犬の所管の名義変更届け(飼い主が変わる場合)、あるいは飼い犬が感染症(狂犬病など)に罹り、周囲の人にうつすことを避ける目的でする届け出でのこと。直哉のこの場合の理由は不明だが、廃犬の手続きを自発的に行ったのではないか。当時は、飼い犬についての法的規制などについて明確なものは無かった。
 
『日記』の中の「廃犬届」の実際の内容、届け先等については良くわからないが、その手続きを【隣家の人】、つまり津川三蔵に依頼したと考えられるのではないでしょうか。
 津川三蔵自身、ハンターであったこと、猟犬を飼っていたことなどから「廃犬届」の手続きの実際について詳しかったことが推察され、それ故に直哉も三蔵に頼って手続き等依頼したものと思われます。
ただ、大正11年当時の志賀家における飼い犬の状況については不明であり、この時の「廃犬届」の理由はわかりません。が、その理由として推察される記述が「畜犬について」にありますので後述します。

津川三蔵と志賀家との間には、このような面倒な用事を頼める関係が成立していた
志賀直哉夫妻が大正4(1915)年9月、手賀沼べりの弁天山に移住して以来、もう6年半になりました。
ここで、5人の子供が生まれ、長女と長男2人の子を失いました。が、3人の娘たちは病気もしますが何とか元気に成長しています。大正11年2月の時点で、6年半にわたる志賀家の家族のドラマを見てきた隣人夫婦の三蔵・ますの二人でした。両家の間には、互いに親愛の情が生じ何か事が起これば助け合う関係になっていたことが推察される『日記』の記述です。

直哉の『書簡』に見る【隣り】は津川三蔵(津川家)ではないか?
ハガキ 大正6(1917)年4月27日  書簡番号205番 三浦直介宛
 
君の御説に従って少しきり食はさないので健康は甚だいいが、意地きたなしになって
仕方がない、柵を出すと雌は直ぐ【隣り】に飛んで行く、【その先の隣】へも行く、【其所の子供】が来ると可愛がってめしを食はすのだといふ事を今日発見した、それから男の方は先頃から鶏の抱いている十日目の卵を鶏が餌を食ひに出た留守に九つの内三つ食って了った。仕様のない奴等だ。             後略

 上記ハガキの文面は、この頃(大正6年4月)直哉が飼っていた二匹のボルゾイ犬に餌を与えすぎてはいけないという助言を貰ったことに対する友人三浦直介への返事であり、文中【隣り】、【その先の隣】、【其所の子供】にふれているものです。

【隣り】は津川家、【その先の隣】は宇田川家(当時、宇田川新兵衛)、【其所の子供】は(宇田川長司あるいはその兄弟)ではないか
志賀家の犬を受け入れる津川家、あるいは可愛がってめしを与える宇田川家(津川家の西隣)の子供のことが書かれていると思われます。
以上のことを徳枝さんに説明して、

津川徳枝さんに聞いたこと、確かめたこと(平成19(2007)年4月20日於白樺文学館)
以前(平成19年3月10日 於白樺文学館)、たまたま徳枝さんから津川三蔵は鴨猟などのハンター(猟銃を使う)でもあったこと、また猟犬を飼っていたことなどを聞く機会があり、『日記』の中の【隣家の人】を三蔵に置き換えても不自然ではないと考えていました。
また、『書簡』(ハガキ)の中の【隣り】は、やはり三蔵(津川家)であり、当時の町の状況からして、【その先の隣】は宇田川家、そして【其所の子供】は宇田川家の子供ではないであろうかと質問しました。

当時の町の状況と津川徳枝さんの直感から 
− 遠い日の記憶につながる嬉しい瞬間
志賀直哉が我孫子弁天山に居住していた当時、西隣は津川家とその先に宇田川家があっただけであるとのこと。津川徳枝さんは、【隣り】は津川家で、【その先の隣】は宇田川家(宇田川新兵衛)のことであると言います。そして、当時の【其所の子供】は、長司(ちょうじ)あるいはその兄弟のことであるとも教えてくれました。 どちらの家も直系子孫が住み続けて現在に至っています。
また、『日記』の中で「廃犬届」の手続きをしたのはお祖父さんの三蔵に間違いないと明言されました。これは、三蔵・ますと共に暮らした徳枝さんの実感、直感から生まれた感想で、確信が有るということでした。 
徳枝さんは、「三蔵お祖父さんは志賀さんに頼まれて廃犬届をしたんだね。」と、思い起こすふうに、そして懐かしむように言われました。遠い記憶につながる嬉しい瞬間がありました。

「廃犬届」の理由について考えられること
「畜犬について」− 志賀直哉の愛犬テルについて
直哉が大正9年執筆した「畜犬について」には愛犬テルの記述があり、

二三年前までゐたテルといふグレーハウンドの雑種の大きい犬などは随分愛しました。− 中略 − 出先で時々人に噛みつくと云ふので、幾度か其故障を持ち込まれ、実際済まない事で、噛まれた人が腹を立つのも尤もであり、テルの方も時にはひどい傷などを受けて来る事が多くなったので −後略−

などと書かれています。

『志賀直哉全集』第3巻(1999年2月8日発行 岩波書店)より

もう一つ、「噛みつく犬テル」についての証言として、『手賀沼と文人』「志賀直哉」には、
                   
「ある日私(筆者注:秋谷半七少年)は家の前に立って、道路を眺めていると、左手の
高田屋さんの方から、例の犬テルがやってきた。ちょうど角松旅館の前にきかかった時、
一寸風体のあまり立派でない人が歩いていた。テルはその人の臀部を臭いでいたかと思
うと、「パクリ」と食いついた。その男は、この旅館の犬とまちがえて、旅館にどなりこ
んだ。旅館ではお得意さんの犬でもあったので、適当にその場をおさめ、薬を出して
消毒をした。大きな歯の跡がついていた。この犬は大光寺の入口を通り、志賀邸へと帰
って行った。 私はこの当時、寺(大光寺)に下宿している川島という先生のところへ、
毎晩勉強にかよっていた。ちょうどテルの散歩道であったので、私はときどきここで
テルにあった。そのたび、私は息も止まる思いであった。こわかったのである。
           
とあり、我孫子町の秋谷半七少年の想い出の中のテルについて、「息も止まる思い」をしたと「こわかった」その体験を70年後も忘れずに書き記しています。
大正11年の直哉の『日記』に記された「廃犬届」の本当の理由は明確ではありませんが、想像するにこのような事が原因の一つであったのかも知れません。

 

4.『十一月三日午後の事』最後部における【隣の百姓】のモデルは津川三蔵

「おや、お父様が鴨を買っていらした。とうとよ」こんな事をいって妻が小さい
女の子を抱いて出て来た。
「見るんぢゃない。彼方へ行って………」自分は何といふ事なし不機嫌に云った。
そして鴨は女中を呼んで隣の百姓へやって、殺して貰った。それを自家で食ふ気
はもうしなかった。翌日それは他へ送ってやった。
                   (大正7(1918)年11月執筆)
         『志賀直哉全集』第3巻(1999年2月8日発行 岩波書店)より
『十一月三日午後の事』の解説
大正7年11月3日のこと、主人公が座敷で寝ころんで旅行案内を見ていると、根戸にいる従弟が訪ねて来ます。そこで、二人で散歩がてら柴崎へ鴨を買いに出かけます。そして、散歩の途中見かけた演習中の兵隊たちの様子と、鴨買いの次第が交互に描かれます。
主人公を「何か狂暴に近い気持」に駆り立てた日本の軍隊の「無知」と非人間性に対する怒りがテーマとなった作品。
非科学的な演習中に弱ってしまった兵隊の様子と、買って帰った瀕死の鴨をオーバーラップさせています。

『創作余談』によれば、「『十一月三日午後の事』これも事実そのままに書いた日記である。然し直ぐ書けばよかったのを何日か経って書いた為め、その事から受けた亢奮がその時程強く現れず自分では物足らない物になった。」と、作者自身が言うように、主人公の怒りそのものがストレートに伝わらず「物足らない」きらいがあるが、その日目撃したことに対する「不愉快さ」を引きずらざるを得ない主人公でした。
鴨を生きたまま買って来たときはおそらくいつもそうであったろうか、【隣の百姓】に頼んで絞めて(殺して)もらっていたのでしたが、この日は、演習で弱った兵隊と二重写しの瀕死の鴨を、もはや自家で食う気持ちにはなれなかったのでした。

日常経験に基づいて創作した最後部
この小説が書かれた大正7年当時、隣の百姓津川三蔵は26歳くらい。自ら猟犬を飼い、鴨猟などのハンターでもあったことから、猟犬に関する知識、扱い方、猟についての様々なノウ・ハウ、経験とも豊富に持っていたはずで、志賀家に頼まれ、鴨を一羽殺すことなどは容易く出来たことと想像されます。
このような、三蔵と志賀家とのやりとりは鴨猟の時期には、よくあったことと思われ、日常の経験を基に、三蔵をモデルにして【隣の百姓】を登場させたと考えられます。
 以上述べて来た事柄から、志賀直哉と津川三蔵との関わりについて、次のことが結論づけられると考えます。

《 結論 》 「志賀家の飼い犬を受け入れ可愛がる」・「志賀家の飼い犬の廃犬届をする」・「志賀家に頼まれ鴨を絞める(殺す)」から、次のことが理解されます。
津川三蔵から志賀家への「日頃の暮らしに密着した支援の実際」が見えて来ます。

ところで、『十一月三日午後の事』における、生きた鴨を買いに行く場面や、その鴨を殺す(絞める・ひねる)などの場面については、戦前までは、野鳥を多く食料とした時代背景があったことを知らないと、読者が理解出来ない部分かも知れません。
江戸時代から、霞ヶ浦、利根川、特に手賀沼周辺は、江戸庶民の食用の為の水鳥(鴨など)の一大供給地であったこと、その猟獲の如何が東京の鴨の相場を左右するともいわれたといいます。

 それでは、ここで、直哉の『日記』から、柴崎へ鴨を買いに行く志賀直哉らの様子を二つあげておきたいと思います。 (鴨と雁の水墨画は、我孫子市鳥の博物館友の会会員 星 崇恵氏から提供されました)

5.志賀直哉の『日記』に見る鴨を買いに行くこと

大正11(1922)年11月3日   金      L74
午前勝也 滝井 橋本と柴崎へ鴨を買ひに行く、
鴨なく、皆にて歩き取手へ行く、
新六にて昼食、 三時頃汽車にてかへる、
テーザーボールをし、(上の家にて)皆入浴、 夜、
原田夫婦来る  夜は疲労しきる

大正12(1923)年1月10日   水      L88
家を売る事を頼みに十二時五十分の汽車にて上京、
      中略
夜  滝井   木下と将棋、
かへり  アヂ鴨といふおしどりのやうな鳥を買って来る

 

6.作品に見る本願寺沼(ほんがんじぬま)の自然描写の比較−『十一月三日午後の事』と草稿『散歩』から

芥川龍之介に激賞された『十一月三日午後の事』に見る本願寺沼のスケッチ部分

二人は主がそれを取って来る間、一町程先の利根の堤防へ行って見た。堤防と云っても現在水の流れて居る所までは一里程もあって、其間は真菰の生ひ茂った広々した沼地になってゐる。
二三発続いて銃声がした。近い所で、急に鴨が頓狂な声で鳴き立てた。遠くの方で小鴨の一群が飛び立った。銃声は尚続いた。脅されて、鴨の群は段々高く舞ひ上った。
 同じ堤防の上を此方へ向って二十騎程の騎兵が早足で来る。そして間もなく銃声は止んだ。二人は堤防を下りて引返して来た。

 作品中、柴崎の鴨屋の主が近所の仲間の所へ鴨を取りに行ってくる間に、主人公と従弟とで一町程先の利根の堤防へ行き、その場所から眺めた沼地(本願寺沼)の風景を描写しています。この風景描写が芥川龍之介に激賞された(注)箇所になります。

芥川龍之介が激賞:「氏(筆者注:志賀直哉)は筆を執るに当って当に描くべきものの外は、殆ど一石一草の贅も描かない。その代り其処に描かれたものは文字通り溌溂たる自然そのものの一部である。もしセザンヌを画家の画家と云ひ得べくんば正に志賀直哉氏は小説家の小説家と呼んで差支へない」(「大正八年度の文芸界」)
ここでは、須藤松雄著『志賀直哉−その自然の展開−』(昭和60年3月発行 明治書院)より引用。           
  
草稿『散歩(十一月三日の事)〔十一月三日午後の事〕』に見る本願寺沼
しかし、芥川龍之介がそうは言っても、筆者がより面白く感じるのは、草稿『散歩』に見られる同じ場所「真菰の生い茂った広々とした沼地」、つまり「本願寺沼」のスケッチの方です。
こういう場所に来ると晴れ晴れするという直哉の素直な気持ちから描かれた、つまり、練り上げる前の生の描写の方が、本願寺沼のひろびろとした空間がより的確にかつ分かりやすく表現されていると感じられます。
実際同じ場所(であろうと思われる所)に立って見渡すと、『草稿』の説明的な描写の方がわかりやすく、土手(堤防)と利根川(本流)との間にひろがる本願寺沼の風景の大きさが、よりぴったりと体感できる表現になっていると思われます。
『十一月三日午後の事』の表現の方が余りにも、「刈り込まれ」過ぎているように思われてならないのですが。
少し長くなりますが、両方の読み比べもなかなか面白いものがあるので、草稿『散歩』の中の該当する場面を引用しておきます。
 
     堤防から其辺の広々とした景色を見ると気が延び延びとした。−中略−
堤防といっても実際川までは半里程もある。その間が水田になってゐる。その水田のかなり広い所を猟期に入って多分三月程村の八十人余りが税金をはらって独占する、而して時々夜に何十間といふ網を丘と丘との間に張って、其所を飛びぬける水鳥をとるのだ。
 「此所へ来ると鴨が田にウンと集まってゐるのが見られるやうな話を聞いて来たんだが、それ程でもなかった」三年程前に初めて来た時の事を自分は話した。その時よりは今日は又殆ど見えないので自分はそんな事をいった。
 その内小銃の音が二三発聞えた。
 猟の鉄砲かと思った。 遠くの方で鴨の一群が飛んでゐるのに気がついた。
 鳴声も聞こえた。
 「中々居る」と従弟がいった。
 三四十羽の子鴨の一群が切りに飛び廻はった。小銃の音が少し繁げくなった。
 子鴨の群は段々高く舞ひ上って仕舞ひに高い所をとうとう西の方へ飛んでいって了った。
 「遠くの方で低く沢山飛んでますよ」
 「矢張り中々ゐるんだね」 
 小銃の響は間もなく止んだ。遠く矢張り堤防の上を十何頭かの騎兵が此方へ向って来るのが見えた。
 自分達は又鴨屋の方へ引きかへした。晴々した気持になってゐた。
          
『志賀直哉全集』補巻第四 草稿35(2002年1月7日発行 岩波書店)より

 

7.柴崎の鴨屋のことと本願寺沼における鴨猟について(小熊興爾氏に聞いたお話を基に)

 柴崎の鴨屋は農家の副業として営まれたものである。
鴨は夕方から夜間にかけて餌を求めて飛ぶ習性があるので、猟は夜間(月の出ていない闇夜を選び)、カスミ網(張切網・はりきりあみ)で鴨を捕まえたのだという。月夜であると、網がキラキラ光って、鴨が気づいて逃げてしまうからとのこと。
さて、作品中にある “真菰の生い茂った広々した沼地”こと本願寺沼(ほんがんじぬま)は、柴崎村の北方、利根川が蛇行して沼地となったところで、現在あるセガチャレンジャーあたりから、電力研究所の下辺りにかけ、金谷水門(かなやすいもん)あたりまでのかつて広大な湿地帯になっていた場所のことである。
(『我孫子−みんなのアルバム』(注)収載の「陸軍陸地測量部発行2万分の1迅速測図(明治20〜30年発行) 取手駅 龍箇崎村」には「本願寺沼」と記載されている。)
この本願寺沼は、昔から土地の人々が葦を刈ったりした入会地(いりあいち)であった。 なお、特に本願寺という寺があったわけではない。
この本願寺沼と、布施弁天(ふせべんてん)下の和田沼(わだぬま)とで盛んに鴨猟が行われたものであった。青山村と柴崎村が本願寺沼で猟をし、布施村は和田沼で猟をしたものであった。
 直哉の草稿『散歩』にもあるが、入猟税を納めることが出来た百姓(須藤家、川村家あたりか?)が税金を払い、手子(てこ)を使って猟をさせた。
 志賀直哉が我孫子に在住した大正年間の鴨猟の期間については、その年により変更されたということで、10月1日〜4月15日であったり、10月15日〜3月いっぱい、あるいは11月1日〜3月15日であったりした。なお、参考までに現在の猟期は11月15日〜2月15日とのことである。
とった獲物は仲買人が買い歩き、その値段は交渉によったとのこと。 
 当時は、鴨(青首)の番い(つがい)を歳暮の贈り物にする習慣があり、羽を交差させ首を伸ばした状態のオスとメスを腹合わせにし、目の粗い竹篭に入れて贈ったものであった。
 この『草稿』の中にも、「鴨」の他にも贈り物あるいは食用となったと思われる色々な鳥の種類が出てきます。「鷭(ばん)」、「おしどり」、「雁」、「白鳥」など、食用鳥の多様さには驚かされます。
特に、「鷭」については、志賀直哉の作品『矢島柳堂(鷭)』の中に「鷭は非常にうまい鳥」と書かれていますが、鷭の脂肪はさらっとしていて軽く、蕎麦つゆや正月の雑煮用の汁のダシとして使用されたということで、その味は本当に美味しいものであったとのこと。
『草稿』の中で、直哉と思われる主人公は、特に「鴨」は番いで買おうとしていますし、「雁」についても番いの値段を聞いています。作品の中では「八圓」で「中々高いな」と主人公が言っていますが、やはり、歳暮用の贈り物にするには番いでしたということなのでしょうか。 もう一つ「 、、でしたら雁より安いです。 雁から見ると又一ト廻り大きい鳥ですが値は安い」ともありますが、これだけでは何の鳥なのか不明です。
以上のように、当時の志賀家は我孫子でこのようなものを食べたり、或いは贈り物として用いていたのかと想像するのも「志賀家の食生活あるいは暮らしぶり」の一端をうかがい知るような面白さがあります。
さて、戦後昭和20年になって、満州からの帰国者による入植地日新(にっしん)地区が出来ると、本願寺沼一帯は入植者によって、戦後の食料増産のための新田開発がなされました。
現在は、北新田(きたしんでん)と呼ばれ、当時の沼の面影は全く無く、水田や畑地に姿を変えています。

 


*『我孫子−みんなのアルバム』:みんなのアルバム同好会 島昭子
平成16(2004)年8月1日発行
《その他の参考資料》
『目で見る柏の百年』:監修中村勝・染谷博 発行人神津良子
 発行所(株)郷土出版社  2008年2月1日発行
          和田沼における張切網を用いての鴨猟や、鴨の仲買の様子など貴重な写真が掲載されている。
『アルバム 利根地区 開拓の歩み』:開拓十周年記念大会 千葉県利根土地改良区 東利根開拓農業協同組合 昭和32年11月発行
「昔は水と泥そして丈余の葦萱の1200町歩、周囲六里半の一大沼沢地であった。 訪れる者は釣師と猟師位であろうか。田にも畑にもならなかったが………。」
「記念写真帳発刊に際して 関東の雄、坂東太郎利根川の流れに沿う、此処東利根の開拓の地は、長さ三里、周囲七里、三か町村にまたがり広漠一千二百町歩、往時より水の遊ぶに任せ、春の雪融け、夏の台風と、時には一大湖水と化し、一面の葦萱は人をして其の方向を知らしめず、只魚鳥の遊ぶに任せてあった」

以上、平成19(2007)年10月12日(金)、白樺文学館において小熊興爾氏より聞き取ったお話を基にしてまとめました。私たちが住む我孫子の原風景が志賀直哉の小説にどのように描かれたかを、またどのような歴史的背景があってその姿を変えたかなどに、思いを馳せながら作品をお読みいただけると良いかと思います。

 

8.〔未定稿166〕に見る志賀直哉と津川三蔵の日常風景

〔未定稿166〕は、その「後記」によれば大正11年に書かれたものと推定されています。ですから、大正11年8月7日の一日の事を記したものということになるとあります。直哉の『日記』の同年8月7日を見ますと、そこには「月見」とだけ書かれていますが、実際はさまざまな事があった一日であったということです。
では、〔未定稿166〕に書かれたこの日の様子を取り上げてみます。

「沼の水がとろりと少しも動かぬ」大変暑い日で、特別に娘の留女子を庭先の井戸(食器を洗うための井戸)で泳がしてやったのに「こんなものか」と面白くもなさそうなので、直ぐあげたなどと記されています。
また、食事について「隣の赤坊の宮参りで来た赤飯を食ふ」とありますが、この記述の意味内容については、西隣の津川徳枝さんにも思い当たるものが無いということでした。
昼寝をしたら背中に敷いた座布団が汗で濡れてしまうほどの蒸し暑さであったともあります。 さて、この日の直哉と津川三蔵とのさりげない日常の挨拶の様子に注目したいと思います。

縁臺で煙草をのんでいる三蔵
起きて茶の間に行く。三日程前から上京してゐた、瀧井君が阿母さんと一緒に昨晩のおそい汽車で帰ってゐる事を妻がいふ。橋本君の原稿を改造に頼むだ事、どうなったか訊きに出かける。猿又に下じばん一枚で、ケンチウ(注)の蝙蝠をさして出る。隣りの爺さんが縁台で煙草をのんでゐる。「お出かけでげすか」といつもの挨拶をする。「今年はこんなに暑くて作物はどうですか」と訊く。「いや、結構でげすな。此分ならば、上出来でげすよ」といふ。
「げす」といふのは此辺の言葉ではなく此爺さんの癖である。前の田圃の早稲はもう穂を垂れてゐる。          『志賀直哉全集』補巻二(2001年 12月5日発行 岩波書店)より


ケンチウ:繭紬。ヤママユガ科の大型のガから取れた糸で織った薄地の平織りの織物。節があり、紬の一種で中国山東省の名産。淡褐色またはクリーム色で、光沢がある。服地・カーテン地・洋傘などに使用。絹織物より廉価。現在では、希少価値のあるもので高級な織物となっている。

筆者は、直哉と津川三蔵との日常の交流が、簡潔に描き取られたこの場面を見つけて、少なからず興奮を覚えたものでした。

津川徳枝さんの記憶と一致する記述
さっそく、津川徳枝さん宅にコピーを持参したところ、翌日徳枝さんから電話が入り、「私も、ああ三蔵お祖父さんのことだと直ぐに思い当たって、興奮した。たしかにいつーもお祖父さんは庭の木の下の縁台で煙草をのんでいたものだと聞かされていた。ただ、お祖父さんが“げす”などという言葉を使っていたかは、わからないけれど」との御返答をもらい、この小さな発見にしばし、二人で喜びあったものでした。
徳枝さんが、お祖母さん(津川ます)、お母さん(津川てる)そして近隣の人々からよく聞かされたお祖父さんのイメージとぴったり合ったということで、こうした記述の発見は、筆者にとっても調査をしていて嬉しいことの一つです。
そこには、津川三蔵への敬意の念さえもが感じられる折り目正しい簡潔な言葉で、直哉は三蔵との日常の光景を描いていると思われます。 直哉の文章の巧妙さが光る場面の一つだと思います。描かれた人物や周囲の様子がはっきりと目に浮かび立つものとなっています。

 

9. 途切れなかった志賀直哉と津川家とのきずな

津川家に伝わるエピソード
「我孫子の津川さんお元気ですか?」− 昭和12年(13年とも)のラジオ放送から
大正12年3月2日、志賀直哉が我孫子を去るにあたり、御礼として津川家へ「最中一円」を贈っていることが「手帳16」に記されています。
ところで、その時を以て両家の繋がりが全く途切れてしまったわけではないことが窺い知れる、ある「言い伝え」が生きています。
 その両家のつながりを証明するような「言い伝え」は、母親のてるから娘へと伝えられ、徳枝さんの心の中に今も生き続けています。
 
津川てるが津川家に御嫁に来たのは昭和12年のことでしたが、ある日、舅(しゅうと)である三蔵が「ラジオで志賀さんが話をする」と、てるに伝えたというのです。
珍しいもの、新しいもの好きの三蔵は、当時はまだ貴重品であった自転車もラジオも持っていたという。今で言う宅急便のような仕事もしていた津川家は経済的に豊かであったから、当時まだ貴重な二つのものを買いそろえることが出来たのだということで、そのラジオは家の高い場所にまるで神棚のごとく置かれてあったといいます。
そのラジオ放送(NHK京都の実況放送)の当日、志賀直哉自身が「我孫子の津川さんお元気ですか?」と呼びかけたというのです。当時の志賀直哉はすでに有名な小説家であり、津川家は殊の外感激したといいます。ただし、この日の放送を聞いたのは三蔵のみであったということで、戦前のこと故、嫁のてるは畑で仕事をするよう命じられ、舅の三蔵と一緒にラジオを聞くことは許されなかったということです。

記憶と記録
さて、この放送が実際あったものなのか、そして志賀直哉が津川三蔵に本当にそう呼びかけたかは、今となっては確かめる術もないことかもしれませんが、この事は津川家、特にお祖父さん、お祖母さんに可愛がられた徳枝さんの心にいつまでも残る言い伝えとなって、家族の大切な「記憶」として生き続けているのです。 
まだ電話が津川家には無かった頃、志賀直哉はどのようにして「ラジオ放送」のことを三蔵に知らせることが出来たのでしょうか。筆まめであった三蔵と直哉との手紙によるやりとりが、継続していたと推察される一例となるでしょうか。
 この「ラジオ放送」のことが事実であったかどうかは現在のところ未調査ではありますが、津川家の人々に言い伝えられて、今も徳枝さんの心にのこる貴重な “エピソード”を、ここに書き留めて(記録)おきたいと思います。

 

10.三日我孫子へ弁当持ちで出かけるつもりの所………

 昭和13年4月5日付け、奈良市上高畑の中村純一に宛てた志賀直哉からの礼状(書簡番号1189番 はがき印刷転居通知状 東京市淀橋区諏訪町二百二十六番地より)があります。

 京都までお見送りありがたう、
 昨日の会は如何、三日我孫子へ弁当持ちで出かけるつもりの所、
 丁度荷物が届いたのと天気不愉快でやめ却ってよかったと思ひました
 クマは翌朝東京駅に無事着いてゐました、

          『志賀直哉全集』第18巻(2000年8月7日発行 岩波書店)より

            *クマ:奈良上高畑時代の志賀家の飼い犬。小説に『クマ』がある。昭和14(1939)年5月「改造」に発表。

 東京諏訪町の家は、直哉が奈良から東京に戻って一番最初に住んだ家で、我孫子へは遊びに来られる距離だと思われます。
 そう、昭和13年4月3日といえば、津川家の初孫徳枝さんの初節句の日(当時は、一か月遅れの旧暦にてお祝いをした)にあたります。
子(孫)煩悩の三蔵が立派な雛飾りをし、盛装したますが生後3ヶ月の徳枝さんを抱き、晴れがましい様子で写っている写真があります。(この写真は、すでに平成19(2007)年3月20日付け毎日新聞【「隣の百姓家の婆さん」我孫子にいた】に掲載済みです。)
 ここで、想像をたくましくすると、三蔵・ます夫婦にとり初孫を得た喜びは一入のものがあったことと思われます。ですから、この4月3日の雛祭りは津川家の一大イベントになったはずです。
そこで、直哉が東京にもどる(あるいは戻った)ことを知った三蔵は、その日を知らせて初孫を見てもらうよう取りはからい、直哉もその気になったと考えられないでしょうか。
 しかし、残念なことに当日奈良から荷物が届いたのと、天気が良くなかったので我孫子行きをとりやめたことが書かれています。もし、この日直哉が雛祭りの津川家を訪問していたら、三蔵やます、そして赤ちゃんの徳枝さんと一緒の写真が撮られ、その貴重な一枚が津川家に残されたことでしょう。

 

11.奈良在住の志賀直哉から贈られた香料二円

津川家初代当主津川徳蔵(つがわ とくぞう)の葬儀(昭和2年3月12日・施主津川三蔵)に際し、奈良在住の志賀直哉から香料二円が贈られ、「津川家香典帳」には「奈良市 志賀直哉様」と記されています。写真撮影が許可され、当館の貴重な資料として保存されています。

 

12.志賀直哉が津川家に贈った名前入りの「大風呂敷」を白樺文学館に寄託

長年、津川家の箪笥にしまわれ大切に保管されてきたものですが、この度徳枝さんから白樺文学館に寄託されました。
「麻布三河台町 志賀」と墨書された縞柄の大風呂敷を「志賀コレクション」の一つとして展示公開中です。(NHK千葉放送放映済み  平成19(2007)年6月6日)
なお、徳枝さんの記憶では、志賀直哉から「硯・杖」などももらい、保管してあったのですが、建て替えに際し前の家を取り壊した時、なくなってしまったということでした。
また、津川家の古いアルバムには、志賀康子夫人の写真も貼ってあったということですが、今では、残念ですが、ありません。