志賀家と津川ます(津川三蔵のおかみさん)その1


志賀家と津川ます(津川三蔵のおかみさん) その1 
『和解』(五)に見る津川ますの役割

目次
1. 『和解』(五)の「虚」と「実」
   小説の「虚」− 【脚気の病気のある女中常】に前を急がせること  
   小説の「実」− 女中【常】は実在の人物
   『和解』(五)における作家の創意工夫について
2.その夜における津川ますの役割
   我孫子町の秋谷半七少年の証言−「先頭は津川三蔵さんのおかみさん」
    津川ますのもう一つの役割について    
津川徳枝さん(津川ますの初孫)の証言−お祖母さんに聞かされたことを忘れない
3.津川ますのこと
  津川ますの人物像
  左近司詩子さんに聞く「津川ますさん」のこと
4. その他
   津川ますが家族に語り伝えた志賀直哉にまつわること
   志賀さんは厳格な人
   「子供が死んで我孫子が嫌になった」と言っていたこと

 

1.『和解』(五)の「虚」と「実」

志賀家と津川ますとの関わりの中で、もっとも劇的で印象的なことは、『和解』(五)の次の場面に描かれています。それは主人公(志賀直哉)が重病の慧子を抱いて回春堂へ急ぐ場面になります。
それでは、『和解』(五)の次の場面をお読み下さい。

 急いで自分は門から暗い路へ降りて行った。雨上りの田舎路は踝迄ぬかった。
隣りの百姓の家族が起きて居た。
「急いで提灯をつけて下さい」と自分は大きい声で云った。然しさう云ひながら自分は足を止めなかった。今出してやった常と竜との行く提灯が遠く見えた。
自分は赤児の身体を烈しく揺らない程度で出来るだけ急いだ。追ひ着くと自分は、「お前は直ぐ俺と回春堂へ行くんだ。――― 竜は奥さんを連れてYさんの所へ行って呉れ」と云った。
尚自分は二三十間後ろに薄白く見える妻に「お前は竜と一緒にYの所へ行くんだぞ。此方へ来ちゃ、いけないぞ」と大きい声をして云った。
 寝間着の裾が膝まで泥水に濡れて、それが足に絡まりついた。自分はその儘急いだ。
赤児は絶えず、「あーァ。あーァ」と弱々しい声で泣いた。身体も毎時より何となく軽いやうな気がした。筋肉が総て緩んで居た。死んだ兎を抱いて行くやうな感じがした。
「慧坊、慧坊」と自分は時々赤児の名を呼んだ。
町長の小さい家が町から離れた小さい坂の下にあった。その側を通る時自分は、「道はもう見えるから、お前医者まで走って行け」と云った。常は少し急いだが走らうとはしなかった。
「何故駈けないんだ」自分は少し怒った。
「私、駈けられません」と答へた。常に脚気の病気のある事を憶ひ出した。それでも常は出来るだけ急いだ。
 町では人々が軒先で涼んでゐた。漸く医者の家へ来たが、医者は五六丁程先の糸取工場へ行って留守だった。直ぐ迎ひをやって貰った。――― 叉迎ひをやって貰った。

         『志賀直哉全集』第3巻(1999年2月8日発行 岩波書店)より

小説『和解』(五)の中で、大正5年7月30日の晩(推定:8時頃)、志賀家の長女慧子の急病が発生し、女中の【常】が町の医院回春堂への夜道を、主人公と共に急ぐ場面はおなじみですが、何故作者は【脚気の病気のある女中常】を、赤児を抱いた主人公の前を急がせようとしたのでしょうか。
真実は、【隣りの婆さん】あるいは【隣りの百姓家の婆さん】こと【津川ます】が、提燈を提げて直哉一行を案内し、康子そして女中たちが後から付き従ったということが、ある二つの証言(後述)から明らかになっているのですが。

小説の「虚」− 【脚気の病気のある女中常】に前を急がせること
弁天山の志賀邸から走れば5・6分程の回春堂への路、事実はこんばん提灯を提げた敏捷な【津川ます】(志賀家の西隣・津川三蔵のおかみさん 当時24、5歳)が先頭を走り、無事に直哉一行を案内したことが伝えられているのです。
ところが、作家は、この場面を事実通りに描きませんでした。【敏捷な津川ます】ではなく、【脚気の病気のある女中常】を選び、主人公の前を急がせようとしています。脚気の病気を持っている【常】ですから、足がむくんでいたり痺れていたりして、当然早く駈けることは出来ません。それ故主人公はいらいらして、少し怒り出します。 そのうえ、坂の下にある町長の小さい家や、町の人々が軒先で涼んでいる様子を点描することで、読者にとっては、回春堂までの道のりの長さと時間とが実感出来る仕掛けになっています。そこで、このみちのりがいかに長く感じられたかという、主人公の焦燥感までを共有することになります。一方で、主人公が【常】に脚気の病気のある事を忘れてしまうほど狼狽した、ということを暗に示しながら、主人公の心理に重点をおいてこの場面を創作したといえるようです。
我孫子を舞台に志賀家の使用人を登場させた、小説『和解』における山場の一つであり、作家によって見事に「創りあげられた」名場面と言えるでしょう。
 
小説の「実」−女中【常】は実在の人物
ところで、この女中【常】についてですが、彼女は実在の人物です。直哉の大正5年の『書簡』と大正11年の『日記』に一回ずつ登場しています。
大正5年6月19日付け、直哉から康子宛の書簡(注)に、その名前が出てくるところから、早くから志賀家に入っていた女中と言えます。彼女の具体的な人物像等の詳細は不明ですが、上記書簡から読み取れる【常】の特徴については、
 
 今度自分が上京したあと常と金太郎(注)を病院に一度やりたいと思ってゐる
 
 とあり、【常】が何らかの病気を抱えていたことが想像されますが、ここでは病名は分かりません。あるいは、『和解』にある通り「脚気の病気のある」女性だったのでしょうか。

*書簡:書簡番号183番『志賀直哉全集』第17巻 281n 封書 東京三田 前田医院内(大正5年6月7日に長女慧子が誕生して12日間経過)

*金太郎:田中金太郎のこと。志賀直哉の実家における祖父の代からの使用人。(参照:『金太の遺作品』)
 
次に、直哉の『日記』に登場する【常】ですが、

大正11(1922)年12月17日    日
留女子熱あり、耳も痛み八釜し、
常、 赤児を連れて来る、
千恵子来る、
夜木下君  知隆さんと来る、

『日記人名注・索引』には、「我孫子時代の志賀家の女中」とあり、【常】についてまとめますと、「早い時期から、我孫子の志賀家に女中として入っていて、何らかの病気を持ち」、『和解』の中では「脚気持ちの女中として登場」し、「大正11年12月17日に赤児を連れて志賀家を訪れている」となります。
 なお、『和解』(五)には、【常】のほかにも、志賀家の使用人として「十二になる守」の【竜】が登場しています。我孫子時代の志賀家の使用人には「子守・下女中・上女中」の区別があり、段々に上がっていったものだという証言内容(注)をほうふつさせます。
 しかし、【竜】に関しては、寄せられた情報・資料などは全く無く、実在の人物か否か、あるいはどのような人なのか等つかめてはいません。

              *「子守・下女中・上女中」:参照「我孫子時代の坂巻たか」
                「当時の志賀家では、子守・下女中・上女中の区別があったとのことで、たかも最初は子守として働いたようです。
               下女中は御勝手などの仕事をし、上女中はお客様の接待
               などをしたということで、子守から下女中、そして上女中と段々上がっていったようです。」   

『和解』(五)における作家の創意工夫について
小説『和解』は、志賀直哉と父直温との長年にわたる不和と、長女慧子の急死・次女留女子の誕生を通して、父子の和解へのプロセスを扱った事実に基づいた作品といわれていますが、特に、我孫子を舞台とした『和解』(五)においては、当時あった店の名前を変えたり(注)、登場人物の役割を事実と変化させたりと、随所に創作の工夫が散りばめられていると考えられます。
 また、登場人物の名前にも作家の工夫が見られます。白樺派の同人であり、学生時代からの親しい友人夫妻をイニシャル表記(Y・K子)にしているのに対し、我孫子の使用人には「愛称」を、近隣の人には「それと判断できる呼び名」を用いている点も、重要なポイントかと考えられます。死にゆく小さな命のために、その夜、懸命に立ち働いてくれた我孫子地元の人々への親愛の情と心からの感謝の表現として、「愛称」や「それと判断できる呼び名」を使用、土地の人々がその各々の役割と個性において、より生き生きと際立つための工夫をしていると思われます。

             *『手賀沼100話』:相原正義著 昭和58年9月30日発行 崙書房
               《77『和解』にでてくる氷屋》の中で、「小説はいうまでもなく、店名をふくめてフィクションが加わる」とある。

 

2.その夜における津川ますの役割

 我孫子町の秋谷半七少年の証言−「先頭は津川三蔵さんのおかみさん」 
 小説では、大正5年7月30日の晩、回春堂への夜道を主人公と共に急いだのは、【常】であるということになっています。 しかし、真実は志賀家の西隣・津川三蔵のおかみさん【津川ます】が、直哉一行(六・七人)を案内したということが伝えられています。
その夜、偶然目を悪くして回春堂を訪れ、その場に居合わせた秋谷半七少年(当時推定年齢8歳〜9歳位)が見た事を、後年その著書(注)の中に書き残した貴重な「証言」があります。                      

 この時、突然、浴衣の人達が六・七人とび込むように入ってきた。先頭は津川三蔵さんのおかみさん、「こんばん」と赤く書かれた提燈をさげていた。つぎは小さい赤ちゃんを抱いた志賀さん、白い浴衣の裾は露でぬれていた。その後が奥様、女中たちがつづいている。赤ちゃんの急病だ、と私は思った。     
                                           

*その著書:ふるさと文庫『手賀沼と文人』(志賀直哉)
(秋谷半七著 1978年8月10日 崙書房)より  
                    秋谷半七(あきや はんしち) 1908年千葉県我孫子町に生まれる。 元千葉県立東葛飾高校教諭。
 
その晩、重病の赤児を抱いた直哉一行が「とび込むように」入ってきたのを目撃した少年は、「先頭は津川三蔵さんのおかみさん、こんばんと赤く書かれた提燈をさげていた」と語り、津川ますが先頭になり直哉一行を案内したことを証言しています。
 ところで、この「証言」からは、「浴衣の人達が六・七人とび込むように入ってきた」とあり非常に緊迫したその場の状況が伝わってきます。この実際の場面と小説『和解』の同場面とでは、異なった印象となっています。 小説においては、主人公と【脚気の病気のある常】だけが、「漸く医者の家へ来た」と変えられ、実際の場面の「緊迫感」より、主人公の「焦燥感」の表現の方により重点が置かれているような気がします。
小説の中では、津川三蔵のおかみさんである【津川ます】がモデルと思われる【隣りの百姓家の婆さん】が回春堂に到着するのは、もう少し後の時間であり、この点についても、事実とは異なって描かれています。事実と創作された場面とを比較することで、両方の相違が際だち、作家の意図が理解されることになります。

津川ますのもう一つの役割について
       また、その夜における【津川ます】のもう一つの役割には、「三造と共に真っ暗な夜の沼を舟で渡り、沼向う(手賀沼対岸)の氷蔵(注)から充分な氷を買って来た」ということがあげられます。
ここに登場する【三造】は、志賀家の使用人で実名は【宇田川三之助】と言います。【三造】という名は志賀直哉が付けたもので(注)、つまり「愛称」であったわけです。この非常に劇的な場面の重要な役割においても、我孫子の使用人を「愛称」で登場させていることに読者の関心を向けて欲しいと思います。
余談になりますが、【三造】の家は志賀邸に近く、徳枝さんに教えてもらったのですが、地元の人々は「道ばたの家」(みちっぱたのいえ)と呼んでいたと言うことです。実は、この「道ばたの家」という呼び方は、志賀自身も使っていたようです。大正12年3月、志賀家が我孫子を去る際、世話になった我孫子地元の人々に贈り物をしたメモ(『志賀直哉全集』補巻六「手帳16」2002年3月5日発行岩波書店)が残されています。その中のひとつに、「道ばたの家 最中一円」と書かれたものがあり、これが三造の家を指しているとすれば、誠に興味深い事実が隠されているように思われます。この呼び方は、誰が呼び始めたかは不明ですが、三造の家を指して、志賀と地元の人々とが共通の呼び名を使用しているという点に注目したいと考えます。

この事実をどう解釈するかは今後のこととするにしても、三造という個性に対し、同様・同質の親愛感を持ち合っているということが言えるでしょうか。楚人冠公園下のその土地には、もはや三造の家は無く空き地になっていますが、「昭和二年六月調製」の我孫子町地図(我孫子市教育委員会所蔵)には、はっきりとその位置が記されてあります。なお、『人と文学シリーズ 志賀直哉 現代日本文学アルバム』(昭和55年 7月1日発行 学習研究社)には、三造の家の写真が掲載されています。


       肝心の【隣りの百姓家の婆さん】あるいは【隣りの婆さん】は、【津川ます】がモデルとなっていますが、【ます】の場合は実名ではなく「それと判断できる呼び名」で登場していることになります。

    *沼向うの氷蔵:「手賀沼に面した大井地区では、明治の中頃から昭和初期にかけて湧き水を使った天然氷を作っていました。…中略… 大井地区の北側には手賀沼が横たわり、西側には大津川が流れています。この川が手賀沼に注ぐあたりは、日の光をさえぎるようにシイなどの木々が生い茂り、冬場は容赦なく寒風が吹付けて気温を下げますので、氷を作るには大変に都合の良い場所でした。暖かい冬の続く現在では考えられませんが、この製氷池に水を張っておくと寒中には、四・五日で一五センチくらいの立派な氷ができました。これを切り出して二枚ずつ重ね、さらに厚くして氷蔵に貯蔵したのです。冬の間、蔵一杯に貯められた氷は4月になると、各地の販売所に舟で送られました。
氷冷舎では手賀沼沿岸の六軒(印西市)・我孫子・呼塚と銚子に出張所を設け販売していました。」


参照:『歴史ガイドかしわ』「氷冷舎−手賀沼の天然氷づくり−」(柏市教育委員会 柏市史編さん委員会 平成19年3月31日発行)より
*三造という名前:彼の「三造」という名は実は志賀さんがつけたもので、本名は三之助だそうである。志賀さんの面目躍如たるものがある。彼は三造で以って結構満足していた。
田中耕太郎(元国際司法裁判所判事)執筆「志賀さんと我孫子」(昭和46・10・26)より『近代作家追悼文集』(やまに書房 平成11・2・25発行)所収            

       津川徳枝さん(津川ますの初孫)の証言―お祖母さんに聞かされたことを忘れない
 津川徳枝さんは、お祖母さんから「志賀さんの子供が熱を出した晩、こんばん提燈を提げて、志賀さんを回春堂まで案内したものだった」そして、「その夜、慧子ちゃんのために沼向うまで氷を買いに行ったものだった」ということを聞きながら成長し、この事は決して忘れないと心に決めたということです。

 

3.津川ますのこと

明治25年生まれの【津川ます】は、大正5年7月30日当時は24、5歳くらいでありました。大正3年、半農半漁の津川三蔵と結婚し、我孫子町の津川家に住みました。
三蔵・ます夫婦は、実子に恵まれず、やがて親戚の寅吉・てる夫婦を養子としました。
寅吉・てる夫婦の長女であり、【ます】にとっては待望の初孫、徳枝さんが昭和13年1月4日に誕生しました。【津川ます】は、徳枝さんを殊の外慈しみ世話をしたという。
昭和45(1970)年5月12日、80歳で亡くなりました。

津川ますの人物像
【津川ます】が「こんばん提燈を提げて、志賀家一行を回春堂まで案内した」という事実は、作品の中にいかされてはいません。が、この事実から津川家と志賀家との間には既に、隣り同士の関係が成立していたと考えられるのではないかと思われます。
【ます】は、大正3年に津川三蔵と結婚し、弁天山の西隣津川家で暮らしました。
やがて、大正4年9月には志賀直哉・康子夫妻が移住して来ました。当時、志賀家の西の隣は、津川家とその先隣の宇田川家(新兵衛)だけであったということから、当初から隣人としての交流があったものと推察されます。
【津川ます】は、暗闇の中、隣家の急を聞くやいなや、とっさに赤ちゃんの急病を察知し、すばやい判断と行動ができる聡明で敏捷な女性であったということも判明しました。
 当時の我孫子町にはまだ電気も来ておらず、8時頃の夏の夜道の暗さは想像以上のものがあったと言えます。こんばん提燈のわずかな明かりだけをたよりに、踝までぬかる「雨上りの田舎路」を走り、大光寺に続く坂道を駆け上がり町の回春堂へと向かうには、やはり【津川ます】の敏捷さがなければならなかったと思われます。
 この一件以来、志賀家と津川家とは、より一層隣人としての関係が強まり、やがて、津川家からのこまごまとした日常の支援を受けることになっていったと思われます。

左近司詩子(さこんじ うたこ)さんに聞く「津川ますさんのこと」
小学校通学時などにますさんにお世話になったことや、ますさんの印象について思い出すまま語っていただきました。

 小学校は我孫子第一小学校でしたが、津川家の孫娘の一人と同年齢であったこと、そして、(詩子さんの)家が小学校への通り道にあったので、ますさんに送ってもらったものでした。
ますさんは体格は小さい方でしたが、しっかりした敏捷な感じ
が備わっていたと思います。
地味な印象ですが優しいおばあさんでした。小さい頃は嶋根家にも津川家にも遊びに行っては、縁側で御菓子や果物を貰って食べたりしたものでした。今では本当に懐かしい思い出となりました。
 ますさんから、もっと志賀直哉にまつわるお話を伺っておけばよかったと、本当に残念に思っています。

 

4.その他

津川ますが家族に語り伝えた志賀直哉にまつわること
 ますが嫁のてるに語り、そして、てるが娘の徳枝さんたちに伝えたこととして次の事柄をあげておきます。
 志賀さんは厳格な人
 津川ますは、志賀直哉の印象、人物像について、「志賀さんは、厳格な人だった」と周囲に語っていたということ。
「子供が死んで我孫子が嫌になった」と言っていたこと
 志賀直哉自身が「子供が死んで我孫子が嫌になった」と、ますに言ったことがあるということ。
『和解』の中に下記の記述が見られます。直哉が津川ますに語った言葉を想起させる場面とも思われます
 『和解』(八)
赤児に死なれた後の自家は急に淋しくなった。夜庭に椅子を出し
て涼んでゐるやうな場合、遠く沼向うの森で「あーッ。 あーッ。」と啼く鳥の声がして来る。自分達はそれが堪らなかった。我孫子も厭になった。此暮あたりから又京都の郊外へでも往って住まうかと云ふやうな事を話し合った。