志賀家と津川ます  その2


志賀家と津川ます  その2
『矢島柳堂(鷭)』に見る津川ます

目次
1.『矢島柳堂(鷭)』について−開発以前の手賀沼の美しさ、豊かさを描写
2.作品『鷭』の解説
3.『鷭』に登場する【隣のお婆さん】のモデルは津川ます、そして、【隣】は津川家
4.この調査で求めていたことは
   ますお祖母さんへの遠い記憶から蘇る沼辺の暮らし   
「鰻のながしばり(鰻の流し針)」の連想から−母親てるとの思い出
   志賀直哉の作品から生きる力をもらうこと
5. 志賀直哉が『鷭』と『百舌』に込めた思い
−直哉自身が我孫子の自然と人々から享受したもの

 

1.『矢島柳堂(鷭)』について−開発以前の手賀沼の美しさ、豊かさを描写
(写真は我孫子市鳥の博物館友の会会員 岡本信夫氏提供)

残念ながらあまり読まれず、また研究者にもとりあげられることの殆ど無い作品ではありますが、昭和35年以前、つまり開発以前の手賀沼の本当の美しさ、豊かさが描かれていると津川徳枝さんは言われます。
また、小熊太郎吉の孫にあたる小熊興爾さんも、幼い頃遊んだ当時の沼の情景は今でも忘れられない美しい記憶の一つだと言われます。
御二人の記憶の中の手賀沼と、この作品『矢島柳堂(鷭)』(注)に描かれた沼の情景とが重なり合うものだと言えましょう。
お二人とも口を揃えて、あの頃(開発以前)が良かったとも言われます。
小品ですが、我孫子手賀沼の自然、周辺の人々の暮らしが水鳥の鷭(ばん)を通して鮮やかに描写され、「野性の生の馴化への挑戦」(注)と失敗を描いて、鷭に象徴される自然と人間との関わりを根本的に問うものとなっています。
志賀直哉が我孫子の自然やそこに生きる土地の人々から学んだ、志賀独自の自然観が作品に反映されていると思われます。
手賀沼の水鳥をよく食用とした戦前までの時代背景などを念頭に、作品を読まれることをお薦めしたいと思います。
日本画家である主人公と漁労を生業(なりわい)とする隣の家族との、鷭に対する意識の相違点が面白く、少しのほろ苦さとユーモアと、そして清澄感漂う作品となっています。 四部作の流れのなかで味わうのもいいのですが、『鷭』だけを読んでも、充分作家の意図するところは伝わるものと思われます。
  
*原題『鷭』は大正15(1926)年1月「新潮」に発表。
大正14年執筆。 昭和2年5月、改造社版『山科の記憶』に
『矢島柳堂』の題で「白藤」「赤い帯」「鷭」「百舌」の四篇を
まとめて収録。
その後、昭和21(1946)年8月に全国書房から刊行された
『矢島柳堂』では、表題作として収録。
             原題『百舌』は大正15年1月「不二」に発表。
大正14年12月執筆。 

*呉谷充利著『志賀直哉 上高畑のサロンをめぐる考察−生きられた日本の近代−』(2003年3月 創元社)に「直哉の自然観」についての考察あり。2006年4月白樺文学館で講演。『矢島柳堂』四部作は直哉の自然観を探る上で重要な意義を持つとある。

 

2.作品『鷭』の解説
(バンのジオラマは我孫子市鳥の博物館所蔵です)

いかにも秋らしい静かな午前、縁先においたチェアに腰かけ、沼の景色を眺めていた主人公矢島柳堂が「鷭が飼ひたい」と妹のお種に言い出します。「中庭に綺麗な水を流し込んで、葭を植ゑ、其所へ一羽でも二羽でもいいが、鷭を放し飼ひにするのだ」と。柳堂が鷭を愛するには、彼自身の気持があったのでした。
「前髪に赤い手絡(てがら)を結び、萌えだしの草の茎のやうな足で葭の間を馳け歩く姿を見ると、その羞むやうな様子が彼には十四五の美しい小娘を見る気がした」のです。
十何年か前、京都に住んでいた頃、町家のそういう小娘に対し、或るしくじりをしたが、年がたつにつれ、その小娘を美しい気持ちで色々憶いうかべるようになりました。そして、いつとはなしに彼の頭のなかでは、その小娘と鷭とが結びつき、同じ女が既に三十歳だというような事は考えられなかったのです。
一週間ほどして、お種が「生きてる鷭よ、隣のお婆さんが呉れたんです」「此間鷭の話をしたら、鰻の流しばりを田へ立てて置くと捕れると云って、それで捕って呉れたの」と、風呂敷を被せた小さいものを両手に持ち入って来ました。隣から鶏の箱を借りてその中に鷭を入れました。
 柳堂は鷭を馴れさせようとして、しつこく色々と世話をやく。ところが、鷭は少しも馴れず餌を全く食わないのです。隣から貰った鮠(はや)や小鮒、書生の今西に買わせた鰌(どじょう)、沼から捕ってきた蜻蛉の幼虫を与えても受け付けなかったのです。
彼はしつこく食べさせようとして、餌をそばへ寄せたりしますが、鷭は驚いてばたばた騒ぎ、違う方の隅に行ってあちら向きにジッと立って身動きせずにいました。柳堂にとって、その様子が十四五の小娘のそれのように思われ、憶い出したくないことを思い出し不愉快になりました。
翌朝、鷭は箱の中で横倒しに長い足を延ばし死んでいました。
その晩、書生の今西が「鷭は非常にうまい鳥ださうですな。埋めた話をしたら隣で大変惜しがってゐましたよ」と云いました。
「いくらうまくたって、飼ふ気で飼ったものは食へない、もう鷭を飼ふことはやめだ」
そう言って柳堂はにが笑いをしました。

『志賀直哉全集』第5巻(1999年4月7日発行 岩波書店)より

また、名著『手賀沼散策ー沼と人と自然とー』(秋谷半七著 1981年3月10日発行 崙書房)に、鷭の特徴についての詳しい解説があるので、是非一読をおすすめします。

 

3.『鷭』に登場する【隣のお婆さん】のモデルは津川ます、そして、【隣】は津川家

上記、作品の粗筋で見たように、この小さな作品の中に【隣】は4箇所も描かれています。しかもその描写が細かく具体的、津川家の人は常に明確な役割、特徴をもって登場しています。鷭を生け捕るためのノウ・ハウを持っている半農半漁の津川家です。
沼縁の人々の日常の暮らしの場面であり、志賀家と津川家との自然で密接な繋がりが存在したことが推察される作品です。
おそらく、実際的な生活のこまごまとした部分での支援を、西隣の津川家から受けていたことが想像される作品となっています。

 


4.この調査で求めていたことは

ますお祖母さんへの遠い記憶から蘇る沼辺の暮らし
平成19(2007)年6月26日(火)、津川徳枝さんに『矢島柳堂(鷭)』を読んでもらい感想を求めました。
『鷭』に描かれた光景は昭和35、6年頃までの手賀沼辺の風景と暮らしがそのまま描写、表現されていること、そして、【隣のお婆さん】は津川ますであると明言されました。
それまでの手賀沼には、種類も数も多くの水鳥が生息し、家の中からも眺められたものだと言われます。漁をする光景もまた、家の中から見えたものだということです。
今では想像も出来ないことですが、現在の「はけの径」よりすぐ先は、田圃になっていて、その先には葦や真菰が茂る湿地があり、沼になっていたということで、昭和35・6年頃までは、『鷭』の主人公矢島柳堂が眺めている視線の先にある風景そのものが、広がっていたのです。
これは、徳枝さんが読後、遙か遠くを望むような様子で開口一番言われたことで、『鷭』に描かれた光景は手賀沼が開発される前の風景そのものだと。
開発によって手賀沼が汚染される前は、水深1・5メートル位までよく見ることができたので、「流し針漁」などが可能であったが、現在ではせいぜい10センチ位までしか見ることが出来ないので、昔ながらの漁法は手賀沼から消えてしまったことも教えていただきました。
そして、もう一度眼を細めて遠くを見るようにして次のことを話してくれました。
    
「鰻の流しばり(鰻の流し針)」の連想から − 母親てるとの思い出
それは、『矢島柳堂(鷭)』の中に書かれた「鰻の流し針」(注)という仕掛けについてのことです。
鰻を獲るための仕掛け「鰻の流し針」は、各家ごとに目印があったこと。徳枝さんは津川家の目印は黒いコールタールを塗った篠竹を水底に立てて置いたとのこと。その篠竹につけておいた流し針をしまうときは、縁の部分に藁を巻いた浅いかごの中に糸を渦巻き状にしまい、針は藁の部分に引っかけてしまったものだと教えてくれました。
この「流し針漁」は、水がきれいで透明でなければ出来ない方法であるということです。 
ここで、徳枝さんが懐かしそうにして、母親のてるさんと一緒に舟(さっぱ舟)に乗り「流し針」を仕掛けに行ったことや、かかった魚を獲りに行ったことを話してくれました。
舟に乗り、棹を操るのが徳枝さんで、舟の向きが悪い時は母親のてるさんが櫓を漕いだものであった。舟を漕ぐ時は風の向きを読んで棹を操ったのだという。
徳枝さんは、今でも手賀沼対岸まで一人で舟を漕ぐことが出来るのだそうだ。あの細い棹一本で。  
生きている鰻は、「宇田川」へ持って行って売った。既に死んでしまった鰻は自家でさばき、料理するのはてるさん。てるさんが愛用した「鰻をさばく道具(包丁と目打ち)」(注)は今も家にのこしてある。これは母親と共に過ごした頃の思い出の品なので、近くにいつも置いておきたいのだそうである。てるさんが鰻をさばくのを、いつも側で見ていた徳枝さんの幼い日のことが蘇るのだそうである。
また、鰻をとる「鰻鎌(うなぎがま)」(注)は鉄で出来ているので、錆びてはいるがこれも津川家の蔵に、60年ほどの間しまわれてあった。これは、三蔵お祖父さんと父親の寅吉さんが使用したものである。幼い頃、お祖父さんが舟の上で鰻鎌を使って漁をするのを見ていたものである。
小さい頃さんざん鰻を食べさせられたので、今は少しも食べたいと思わないなどと、贅沢な事を言われる。現在の鰻は皮が堅くまるでゴムを噛んでいるようなものだが、小さい頃食べた鰻は、皮が柔らかく油がのっていて箸でスーッと切れたものであった。鰻は蒸さずにそのまま焼くのがてるさんの料理法であった。
以前、手賀沼ではワカサギ、ボラ、ナマズ、コイなどがたくさん獲れたものであった。徳枝さんは、ナマズは脂が強いので好きではなかったが、コイはとても美味しいものであったと振り返る。戦争中も食べ物に困った記憶はない。豊かな手賀沼の恩恵は本当に大きいものであった。
 また、手賀沼でよく泳いだものであった。沼の深さは大人が立てるほどであり、水底には藻が沢山生えていた。
沼の中のあるポイントには、きれいな水が湧き出し、人々はその水を掬って飲んだものであったという。
今、手賀沼で泳いだら後で正露丸を飲むそうであるが、以前はそんな必要がなかった。沼の水は本当にきれいだった。お腹をこわしたりなんかしなかったとのことである。
 手賀沼の豊かな自然から人々が受けた恩恵は、沼べりの人達の確かな記憶となって、代々受け継がれて来たものであったことが、眼の前の徳枝さんから語られました。

*流し針漁:津川徳枝さんによれば、「ながな流し漁」のことであろうということである。           
「ながな流し漁」については、『村の記憶ー手賀沼縁りに生きて』(星野七郎著 2008年 6月20日発行 崙書房出版)に写真が掲載されている。

*鰻をさばく道具:鰻用の小さい包丁と目打ち。  写真参照
    津川てるさんが使用したもの。  包丁:柄の部分10p、柄の握りの先端部分は掌になじむよう斜めに削ってある。「水正撰」と焼き印が押されている。 鉄製の刃の部分長さ14p。
 目打ち(鉄製):長さ14p まな板に立てて使用する。
 長年の使用により、少し曲がっている。
*鰻鎌(うなぎがま):写真参照   
             鉄製。 津川三蔵氏、津川寅吉氏が使用した60年以上前のもの。
             実際使用するときは、竹でつくった長い棒を付ける。

鰻鎌漁(うなぎかまりょう)については、やはり『村の記憶ー手賀沼縁りに生きて』に解説と、「鰻鎌かき」の写真と説明図があるので、御参照下さい。

志賀直哉の作品から生きる力をもらうこと
現在の「手賀沼」は、もはや往時ほどの生き物の多様性も無く、また、エネルギーも湛えてはいません。しかし、日々の暮らしの中での人々の慰めと喜びは、「満々と湛えた清い水と、そこに宿るものたちのおおらかな野生の生命の輝き」であったはずです。
その「おおらかな野生の生命の輝き」がいかに大切なものであったかということを、直哉は『鷭』において書き記し、そして私たちに伝えたのです。
一度は失われた「豊かな自然とその記憶」に再びつながり、「作品から生きる力をもらうこと」、この事こそが実は今回の調査において、筆者が求めた最大の目的であり願いでもあったのです。

 

5. 志賀直哉が『鷭』と『百舌』に込めた思い
             − 直哉自身が我孫子の自然と人々から享受したもの

九十年程前、ここ手賀沼の水辺にある弁天山に住んだ志賀直哉は、身近にあった野生の鳥や手賀沼の風景を題材に『鷭』・『百舌』を、遠い彼の地奈良で完成させました。
『百舌』は野生の命(百舌と地もぐり)の激しさを扱った名作だと思いますが、長いながい時間の末に、これらを完成させた作家の、我孫子の自然への思いと愛着には、なみなみならぬものがあったのだと改めて気づかされます。
また、作品『鷭』において、鳥に象徴される自然は、人間がその欲望のままに支配出来るものではないのだと言っているように感じられます。
人間以上の野生の命の存在を直哉に教え示した我孫子の自然、そして、野生の命の輝きと重さとを日々の暮らしの中から、静かに手を添え教え導いた人々への思いが、直哉をして筆を執らせたのだと思われます。
さらに、最愛の子供を二人までも失った我孫子という土地にこだわり、そこに生きる「野生の命のはかなさと強さ」とを、表現しようとする意志が見えるような気がします。
それ故に、『百舌』の最後部では、百舌の子が親鳥の後を追いかけ、ついには「到頭何処かへ連れて行って了った」というくだりが書かれ、野生の親鳥と子との絆の強さが描かれます。
創作のために費やされた苦しみの時間は、どれほどのものであったかと思わざるを得ない二つの作品ですが、『矢島柳堂』四部作の中で「『鷭』と『百舌』だけに愛着がある」(『創作余談』)と作者本人が語っていることに、耳を傾けたいと思います。