近代文学史上、そして我孫子にとって大変貴重な一枚の写真


近代文学史上、そして我孫子にとって大変貴重な一枚の写真


さて、先号でこの写真の中の若い女性(右から2番目)について、平成17年の秋千葉県会議員浜田穂積(はまだ ほづみ)氏から志賀家の女中坂巻たかさんではないかとの御指摘を受けたことを紹介しました。 それ以来、たかさんについての調査研究を、是非とも早く押し進めたいと願っておりました。
その翌年の平成18年1月、我孫子の大雪の日に突然来館されたある近代文学の研究者が、筆者に教えてくれました。「当時、主人と使用人とが一枚の写真におさまることは考えられない時代にあって、この写真は非常に珍しく貴重なものである」と。
その研究者は、「白樺派」との因縁浅からぬ、雑誌「スバル」の重鎮であった平出修(ひらいで しゅう)の孫にあたる平出洸(ひらいで ひろし)氏でした。この折の氏の言葉によって、この調査研究への意欲がますます湧いてきたことを憶えています。


それは、たしかに「白樺派」らしき行いであると思われますが、たかさんや三造の愛称をもつ船頭の宇田川三之助の人間的魅力が、「我孫子在住白樺派」の三人に愛されたこともその理由ではないでしょうか。
坂巻たかさんと思われる若い女性は、大正6(1917)年5月12日、武者小路実篤の誕生日の記念に根戸の実篤邸(現・船戸・我孫子山荘)で他の10人の人々と共に写真におさまっています。
 遠く手賀沼を、近くに松林を背にして、一人一人がそれぞれの表情でこちらを見ています。大正6年5月12日という時を永遠にして。

では、たかさんと思われるこの女性が、すでに志賀家の女中として入っていた大正6年の5月という時点において、これらの人々はどのような芸術的・思想的活動をしていたかを紹介したいと思います。
 まず、大正3年9月東京から天神山に移住した柳宗悦(やなぎ むねよし 写真中央腕組みをしている)・兼子夫妻(かねこ 前列左手の女性)について。白樺派のなかで一番早く我孫子に住んだ夫妻で、夫宗悦は当時宗教哲学者でありウイリアム・ブレイクの研究をしていました。大正6年当時は、庭内にバーナード・リーチの窯と仕事場が完成し、自身の宗教哲学論の発表も盛んに行っていました。一方、兼子夫人はすでに声楽家として活躍し、そのアルトの歌声は手賀沼の湖面に響いたという逸話が残っています。

大正4年の9月我孫子にやって来た志賀直哉(しが なおや 柳の右隣り)・康子(さだこ)夫妻は二番目の居住者となります。前年の大正5年7月に長女慧子(さとこ)を急病で亡くし、次女留女子(るめこ)が誕生する2ヶ月前の夫妻です。
この頃、直哉は三年にわたる休筆期を経て創作意欲を回復し、『城の崎にて』などの名作を発表しつつある時期でした。8月には父との和解が成立、10月には名作『和解』を発表し、文壇を騒がせ、作家としての地位を築き上げました。
康子(さだこ)夫人は勘解由小路資承(かでのこうじ すけこと)の娘で、康子の前に立つ女の子(9歳)は、喜久子と言い康子夫人の実子ですが訳あって武者小路実篤夫妻の養女(入籍は大正6年5月8日)となっていました。

大正5年12月に我孫子根戸の直哉の土地を借り、初めて自分の家を持った武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)・房子(ふさこ)夫妻は三番目の居住者となります。
写真には写っていませんが根戸の家のデザインは房子夫人が「喜んで図を何枚も書いた」のだと『或る男・199』には書かれています。

柳が志賀を我孫子へ誘い、志賀が武者小路をよび次々にやって来たということになります。そして、この三人が我孫子の地でそれぞれの家庭を持ち子供を育て、互いに良き影響をし合い、それぞれの才能を開花させた充実の時代といえると思います。
 
この時期の実篤は、大正6年3月「白樺」《六號雑記》の中で「我孫子実篤刊行会」を設立する事を読者に呼びかけ、自身の著作の刊行を図り実施しました。 また、「新しき村」の構想を得、大正7(1918)年9月15日この地で発会式及び壮行会をひらき、土地探しの旅に出発しました。

さて、一番左にたつ金子洋文(かねこ ようぶん)は、当時武者小路家の書生をしていた人物です。大正6年1月に武者小路家に入り、当初喜久子の家庭教師をしていたのですが、喜久子が女学校に進学する関係から、柏町の小学校の先生が教えにやって来て、洋文は家庭教師から書生兼執事となっていた頃かと思われます。洋文の「年譜」には、その我孫子時代について次のように記されています。「近くに志賀直哉、柳宗悦も居住し、「白樺」同人やその他多くの芸術家と交わり、種々学び得て、生涯の人間形成の土台となる」と。
当時の武者小路家の様々なひとびとの出入り等、様子が良く推察できるものとなっています。
雑誌「白樺」を愛読し、実篤の思想に感動して実篤の家にはいった洋文でありましたが、この年の夏には我孫子を去っています。

洋文の右に立つ女性は、中西吉子(なかにし よしこ)と言い兼子の実の妹です。
最後に、一番右端の背の高いがっしりとした男性は『和解』にも登場する三造こと宇田川三之助です。手賀沼の「御居間(ごいま)の渡し」の船頭でもあり、志賀家の使用人でもありました。
『和解』に登場する「気持のやさしい、酒をたしなむ、よい人であった」(『手賀沼と文人』)と言われています。

 さて、鮮烈な個性の持ち主としての「白樺派」三人とその夫人たちに囲まれながら、坂巻たかさんにとって、主家の志賀家における暮らしとはどのようなものだったのでしょうか。
 次回は、いよいよ坂巻たかさんの志賀家における暮らしぶりについてご紹介したいと思います。

平成20(2008)4月11日