我孫子時代の坂巻たか


前回説明した「記念写真」について

「手傳」・「女中」・「お手伝いさん」とのみ書かれた「右から二番目の若い女性」について
「記念写真」の中の若い女性については、実名が書かれることはなく、例えば「手傳」(『志賀直哉全集』第12巻 口絵 昭和49(1974)年4月30日発行)、「女中」(『新潮日本文学アルバム・11・志賀直哉』1984年11月20日発行)、あるいは「お手伝いさん」(『志賀直哉展』図録 世田谷文学館 第2章【「白樺」の頃】平成13年10月6日発行)などとあり、時には全く何らの説明も無かったりします。
 つまり、90年余りの間、「使用人」ではあるけれど、「誰の使用人で実名は何であるか」が不明のままであったということになります。「手傳」・「女中」・「お手伝いさん」とその呼び方も時代を反映したものであったのです。

ここで白樺文学館が知りたいことを再確認

 実は、坂巻たかについての調査項目中、当館が特に関心を寄せているのが「記念写真の中の若い女性は、坂巻たかであるのか否か」ということでした。
 何故なら、平成17(2005)年11月3日のこと、浜田穂積氏から「記念写真の中の右から二番目の若い女性は、大正5(1916)年、沼南村大井(現 柏市大井)出身で、女中として我孫子弁天山の志賀直哉家に入った坂巻たかであると思われる」という情報が寄せられていたからでした。
 ですから、文学館としては、この唯一実名不詳の「女中である若い女性」について、詳しい情報を得たいと長い間願っていたところでした。

3回にわたるインタビューが実施される

細田栄氏・内田ミトさん・丸山弥生さんにお話を聞く
幸運なことに、縁あって平成20(2008)年4月6日に浜田穂積氏の仲介で、坂巻たかの御長男、細田栄氏(ほそだ さかえ)氏と末娘の内田ミトさんの御二方に初めてお会いする機会を得ました。
この日、福満寺(柏市大井・旧沼南町大井)において細田家の御先祖供養の御式が執り行われました。その後御住職、浜田氏、細田栄氏の従弟坂巻石和氏らが、坂巻たかについての思い出話をされ、その模様を白樺文学館スタッフが聞き取るということになりました。

また、さらに平成20(2008)年4月27日にも、細田家の墓所の石法要が執り行われ、当館スタッフもお詣りをさせていただき、再度御遺族の方々からお話を伺うことができました。特に二回目の石法要の日には、細田栄氏、内田ミトさん、あらたに丸山弥生さん(坂巻たかの御孫さん)ともお話する機会を得ました。

その折、たかの面差しに大変よく似た(参照:細田正松氏と結婚した後の柏時代のたかの写真)弥生さんに、白樺文学館で平成17年に実施した座談会のビデオを御覧いただきいと御願いしたところ、快く承諾、5月28日には「弥生さんがたかを語る」というインタビューを実施しました。

しかし、残念なことに「坂巻たかである」という確証は得られず
上記のお三方には、白樺文学館の調査の経過等を説明し「記念写真」を御覧いただきましたが、皆様からは「初めて見る写真であり、この若い女性が坂巻たかであるかどうかはわからない」という御意見であったため、残念ながら3回にわたるインタビューでは、確証を得るには至りませんでした。

坂巻たかの志賀家での暮らしについて

しかし、今回の出会いにおいて、上記お三方から、志賀直哉の『日記』等からではうかがい知れなかった、たかについての御話も色々と知ることが出来ました。  
特に生い立ちに関することや、志賀家に入った経緯等については全くわからないままでした。

そこで、たかが登場する志賀直哉の『日記』・『書簡』の記述を基にして、3回に及ぶ聞き取り調査から得られた事柄と、既に平成17年11月27日に実施済みの座談会でのお話等をない交ぜながら、たかの志賀家における暮らしぶりについて紹介したいと思います。

「我孫子時代」・「京都時代」・「奈良時代」の三時代にわけて、そして志賀家を去った後も「折りある毎に志賀先生を訪ねて行った」という「柏時代」とに分けて、お話しいたします。

我孫子時代(たか推定年齢15歳〜)
生い立ちと志賀家に女中として入った経緯


坂巻たかは明治34(1901)年4月27日、当時の沼南村大井(現 柏市大井)の農家に生まれました。
明治45(1912)年、尋常小学校卒業後、柏の紡績工場でお針子として働きましたが、その後大正5(1916)年、志賀家に女中奉公に入りました。
当時の農家は皆貧しく、たかも「口減らし」のために我孫子弁天山志賀家の女中として働き始めました。写真は弁天山にあった志賀邸の模型(唐澤氏提供)白樺文学舘にて展示中

志賀家における「子守・下女中・上女中」

当時の志賀家では子守・下女中・上女中の区別があったとのことで、たかも最初は子守として働いたようです。
下女中は御勝手などの仕事をし、上女中はお客様の接待などをしたということで、子守から下女中、そして上女中と段々上がっていったようです。
 
もし、この写真の中の「女中で若い女性」が坂巻たかであれば、たかは16歳ということになります。武者小路実篤の誕生日の記念写真ですが、たかにとっても色柄物の半襟をかけてもらい、白足袋を履いておしゃれをした娘時代の記念の写真ということになったことと思われます。

志賀直哉の『日記』に見るたかの暮らし
さて、我孫子時代の志賀直哉の『日記』(大正11年から12年3月)におけるたかの女中としての暮らしぶりに焦点を当てたいと思います。
残念ながら、大正11年の『日記』からしか、その様子がわからないのですが、登場回数は12場面を数え、その女中としての働きぶりは大変めざましく明確な印象があります。
それでは、ここで、たかが登場する重要な我孫子時代の三つのドラマを紹介したいと思います。読者の皆様には、たかの志賀家での暮らしぶりを御覧になり、主人である志賀直哉との距離を測っていただきたいと思います。(弁天山 志賀邸母屋 間取り図は木下川氏より提供されました)

志賀直哉の『日記』(大正11年に限る)に見る三つのドラマ

ドラマその1(たか推定年齢 20歳か)
 四女万亀子の誕生と『暗夜行路』執筆の夜

大正11(1922)1月22日   日   晴   寒       L11
康子、頭痛する、熱八度三分程、然し心配はなき由、
十二時より仕事、四時まで六枚書く 寿々子中々眠らず たか一緒に起きてゐる、

 この年の1月19日に志賀家の四女万亀子(まきこ)が誕生したばかりで、まだ四日目です。志賀家にはその他大正6年7月生まれの次女留女子(るめこ)と、大正9年5月生まれの三女寿々子(すずこ)がいます。
康子(さだこ)夫人は出産後間もない身体であり、幼い娘達の世話が出来ません。真夜中にもかかわらず、ぐずって中々眠らない寿々子の面倒をみているたかが描かれています。 『暗夜行路』執筆の張りつめた空間のすぐ隣りで。

 
ドラマその2(たか推定年齢 20歳〜21歳か)
直哉、家族と女中らを伴い箱根強羅温泉で坐骨神経痛の養生をする

大正11年の冬は我孫子弁天山の庭の土が一尺も凍り、鍬が通らず鶴嘴で掘らねばならないほどで、その寒さで直哉は坐骨神経痛に罹ってしまいます。大変な痛みに襲われ苦しみます。(参照;『草津温泉(二度目の草津)』
「きりでもむといふやうな痛み、のみで削られるといふやうな痛み」だと大正11年2月7日の『日記』に書いています。
我孫子町の医院回春堂の荒井医師に様々な治療を試みてもらいますが、ついに4月16日からは、直哉は康子夫人、留女子、寿々子、万亀子、女中のたか、兼を伴って箱根強羅温泉へ坐骨神経痛の養生に出かけています。
 また、この頃百日咳が流行っていたようで、4月17日の夜妻の康子はまだ生後三ヶ月にも満たない万亀子にうつることを怖れて、帰りたいと言い出します。直哉もそれが良いと賛成し、18日には小田原の今宮小児科医に相談した結果、下の二人の娘を帰すことにします。同時にワクチンの取り寄せ方を依頼しています。康子等を送ってから、直哉は留女子と二人で強羅に戻りますが、やはり、母親と離れた留女子は淋しがります。
 20日の午前、直哉は留女子を連れて散歩しますが、腰が痛んでしまったようです。
午后には、淋しがる留女子をたかが負ぶって、兼と一緒に宮ノ下まで遊びに行っています。
直哉は夜中淋しがって泣く留女子に閉口しつつも湿布をしてやります。
 4月21日には、小田原の今宮医師からワクチン到着を知らせるハガキが届き、直哉は早速留女子とたかを連れて出かけて行きます。
 直哉の強羅温泉滞在は4月16日から5月19日までです。19日には皆と別れて鵠沼の岸田劉生を訪問したり、旧友に会ったり実家に寄ったりして我孫子には5月24日帰着しています。

 
ドラマその3(たか推定年齢 21歳か)
「たかもよくつとめたり」− 志賀家の幼い娘たちの入院騒動

 大正11年12月19日の夜三女寿々子が高熱を発し、回春堂の診察によれば肺炎に進行するかも知れないとのこと。翌日の20日には慶応病院に入院する事に決め、木下(筆者注:木下検二のこと)に東京に行ってもらいます。その日、麻布の母上(注:志賀浩)も終列車にて我孫子に来てくれたので、康子も安心します。そして、21日には急遽入院の都合がつき、母上、康子・寿々子、万亀子、女中のたか、木下検二とで上京します。
 翌22日の直哉の『日記』には、慣れない病院での生活のせいで「前夜二人共(筆者注:寿々子、万亀子)八釜しく」泣き叫び、あばれたものらしく康子もたかも疲れて弱ってしまったことが書かれています。
 12月21日から28日までの八日間に亘る泊まり込みでの子供達の看病は実に大変であったことと想像されます。退院し無事我孫子の家に帰宅したその日の『日記』には、次のように記されています。

大正11(1922)年12月28日   木       L83
雨の音、久しぶりの雨、退院出来さうもなく失望する、
柳の所へくやみに行かうとして電車却々来ず直ぐ病院に行く
雨やみ、二時頃退院する、
八日間二人にて七十一円なり、甚だ廉なり、木検(筆者注:木下検二のこと)来てくれる、
自動車にて上野へ行き三時五分にてかへる、無事帰宅、
疲れる、婆や喜ぶ、結局善良な婆と思ふ、たかもよくつとめたり
皆親切によくしてくれた、

志賀直哉による「沼南村の人」について
志賀直哉が後年、東京常盤松に転居してからの懐古談として、次の言葉を引用します。
   
「むかしはみんな渡舟でね、それがまたよかったものだ。向こう(湖南村)の人は気立てが良く、働きものが多くてね。 仕事師や女中など、よく向こうから来てもらったものだ。」

     (『志賀直哉の原像』七 我孫子 桜井勝美著 昭和51年12月 宝文出版)
     *筆者注:湖南村とは沼南村のことかと思われます。

我孫子から京都そして奈良へ付き従う
 志賀直哉とその家族に対して献身的に尽くしたたかは、ついに厳格な主人直哉から褒めてもらいます。 「たかもよくつとめたり」と、ごく短く簡潔な一言に込められた直哉からのたかに対する感謝の言葉でもあろうと思われます。
おそらく、たかの心根の優しさと真面目さと、そして気丈さが直哉や康子夫人に認められたのでしょう。こうしたことの積み重ねがあり、やがて大正12年3月2日直哉一家が我孫子を去り京都へ移住し、そして奈良へと転居するのにも、付き従っていくことになったのではないかと推察されます。