京都時代の坂巻たか


京都時代のたかの暮らし(たか推定年齢22歳〜)
  家族の病気の看護にあたるたか
 志賀直哉の京都時代(粟田口三条坊)の『日記』に、特に大正12年中その実名が3回、そして「女中等」と1回ありますので、これにたかが含まれているとすると計4回登場します。
相変わらず、たかは康子夫人と三人の娘達(留女子、寿々子、万亀子)と一緒に行動しています。
京都時代の直哉の『日記』から見えて来るたかのくらしぶりは、我孫子時代とは趣が変わり、直哉や家族とともに「嵯峨のシャ迦堂の裏の田圃にレンゲをつみに行く」(大正12(1923)年5月10日)とか、「若草山の上にて弁当をひらく」(大正12(1923)年5月14日)など、5月中旬のピクニックの楽しげな場面が2回あります。あるいは、主人の直哉に「宝塚少女歌劇」の切符を買ってもらったりしています。

 しかし、やはり志賀家の家族の病気はたかについて回り大正12年7月20日過ぎ某日、尾崎一雄が初めて志賀直哉を訪ねた際のこととして、次の場面を引用します。

   独り、玄関先に立って案内を乞うた。 女中が玄関をあけた途端、リゾールの臭いが鼻を突いた。誰か病人がいるらしかった。 此の女中は、多分我孫子以来のたかである。 たかと入れ代りに、いがぐり頭の、がっしりした身体つきの男が出て来て、尾崎をじっと見てから一と言「あおがり」と言った。
  
            『志賀直哉・上』(「粟田口三条坊」阿川弘之著 新潮社)より

 この年の7月初旬から康子夫人が原因不明の高熱を出して寝込み、その上留女子が疫痢に罹り入院、危険な状態にあったのです。リゾールの臭いはそのせいでした。 やはり、たかは家族の病気の看病・世話にあたっていたのでした。
 ところで、「いがぐり頭の、がっしりした身体つきの男」は、やはり我孫子から2ヶ月遅れでやって来ていた志賀直哉の一番弟子の滝井孝作です。

関東大震災の見舞いで上京
たかは見舞いのため上京する志賀直哉のお供をする
 大正12年9月1日、京都清水寺に参詣に出かけた際、大変な揺れを経験した志賀家一行でした。
「東京では大変なことになっているというので、志賀先生のお供をして上京し、一面の焼け野原を見たものであった」というたかの言葉を、孫の丸山弥生さんは聞いています。

この時の体験を基に書かれた直哉の作品に『震災見舞』があります。
 この年、雑誌「白樺」が八月号をもって廃刊となり、以後「白樺派」はその求心力を失い、同人たちはそれぞれの道を歩むこととなります。
同年10月、志賀家は京都山科に転居しました。