奈良時代の坂巻たか


奈良時代のたかの暮らし(たか推定年齢24歳〜)

奈良幸町時代のくらし 
 志賀先生は武者小路さんとよく麻雀をしていたものだ   
志賀家は、大正14年の4月に奈良市幸町に転居し、同年5月に次男直吉(なおきち)が誕生しています。
 滝井孝作が大正14年8月、武者小路実篤が同年暮に奈良に移住しています。

翌年の大正15年2月26日の『日記』には、「十一時半女中二人活動写真より帰る」とあります。この「女中二人」の中にたかが含まれているとすれば、ここの暮らしにも中々楽しい事が有ったことであろうと推察できます。
 また、「一昨晩二人をやるつもりの所 客来にてやれず今晩やる」とも続いて記されてあることから、やはり、ここでも来客が多かったことが想像されます。
孫の丸山弥生さんが、たかおばあさんから聞いた話として、「志賀先生は武者小路さんとよく麻雀をしていたものであった」という事があります。

直哉と麻雀について
この直哉と麻雀については、阿川弘之の『志賀直哉・上』には次のように書かれています。

       直哉がいつ麻雀を覚えたか、はっきりしたことは分らないけれど、多分、山科から奈良へ移って間もなくであらう。とすれば、日本流のお座敷麻雀が大流行の萌しを見せ始めたのとほぼ同じ時期にあたる。日記初出は、大正十五年の一月三十一日である。 中略 滝井は直哉と同様、面白いと思ったら熱中する方で、「一年中温泉場にゐるやうだ」と人に言はれるくらゐ、仲間共々此の新しい勝負事に耽り出す。 麻雀の他にも将棋、花札、謡の稽古、「奈良では毎日皆賑かに遊んだ」と書き残してゐる  中略   幸町の家の、一番奥の離れが麻雀部屋に使われた。 時には二た晩ぶっ通しの合戦になり、「エィッ」といふ直哉の鋭い掛け声が、青井岩雄のゐる玄関脇の書生部屋までよく聞えて来た。
       外は猿や狸の出没する静かな住宅地で、書生の青井は、「夜ふけにあんまり大きな声お出しにならん方がええがなあ」と、いつも思ってゐた。

大正15(1926)年1月31日
朝按摩を呼ぶ、午后早々中西といふ小学校の先生来たれども
丁度机に向かはうとしてゐる時ゆえ面会断る
書斎にて習字 唐紙二枚書く、中戸川吉二来る
一緒に滝井訪問 直三も一緒に四人にて若宮 春日 三月堂辺を散歩 ホテルにて食事
帰って夜明しにて麻雀をする

たかのお使い   
       この頃のたかは直哉の麻雀の相手を呼び集めるための使いをさせられたようで、昭和2(1927)年7月*日の滝井孝作宛 封書(使持参)には、次のように記されています。

今日改造から電報来たので休みついでにもう一ト月休む事にした
加納君を誘って網野さんと四人で麻雀如何
使たか故、加納君誘ふ事お頼みする
  滝井君               直


『暗夜行路』後篇ふたたび休載
       この年は『暗夜行路』を書き続けましたが、翌昭和3年の1月、6月と断続して発表し、以後昭和12年まで、休載しました。

風邪の看病
ところで、昭和4(1929)年3月19日付け、東京の実家から奈良市幸町の康子夫人への手紙には、「皆風邪をひかぬか心配している 滝井一家気の毒だがその后どんな具合か たかが風邪を背負込んで帰らぬやう充分充分注意の事」とあり、直哉は家族が風邪をひかないよう充分注意をするよう康子夫人にしたためたりしています。
この文面からもやはり、たかは直哉の家族や滝井一家の病気の世話に当たっていたらしいことがうかがえます。

もしや我孫子以来の「坂巻たか」ではないか
 志賀家のスナップ写真(大正15年頃 奈良公園にて)の中の若い女性
について
   
志賀家の次男直吉が誕生した翌年の大正15年頃、家族の身なりから想像して季節は陽気の良い春ころと思われますが、奈良公園にてくつろぐ志賀家のスナップ写真が『文学アルバム13』(1955年7月25日発行 筑摩書房)にあります。家族の後ろに藤製の乳母車らしきものがあり、そこに小さな直吉を乗せて春の一日を散歩にやって来た家族のちょっとした記念の写真というところでしょうか。さて、向かって一番左に着物姿の若い女性が座っていますが、この女性が何と「根戸記念写真の中の若い女中」に大変良く似ていることに気づかされます。志賀家の家族の名前は記されていますが、ここにも彼女の名は書かれていません。
「根戸記念写真の中の若い女中」が「坂巻たか」であるとすれば、我孫子から京都そして奈良へと従って来たということですから、もしやこの女性も「坂巻たか」その人ではないだろうかということになります。
興味のある方は、「根戸記念写真の中の若い女中」と『文学アルバム』の写真とを見較べてみてください。

 
奈良高畑に転居(たか推定年齢28歳〜)

 「高畑サロン」、『暗夜行路』完成の家で
 昭和4年2月、志賀直哉46歳の時、父直温(なおはる)が77歳で死去、同年4月には奈良市高畑に135坪の豪華な家を新築し転居しています。自ら設計し、京都の数寄屋大工下島松之助に建築を依頼しました。この家には、茶室やハッチのある当時としてはハイカラな食堂があり、「高畑サロン」の仲間が集うベランダもありました。この家で昭和13年4月上京するまでの9年間を暮らしました。
この家で当時、直哉を慕い奈良在住の20人程の画家・文士達が集まり、芸術を語り人生を論じて、やがて「高畑サロン」と呼ばれるようになります。
この「高畑サロン」には我孫子時代でもおなじみの、武者小路実篤、滝井孝作がいます(参照:中村一雄著『奈良高畑の志賀直哉旧居−保存のための草の根運動−』 昭和58年8月 渓声出版)。
たか、志賀家の女中頭を務める
また、細田夫人のお話によれば、この時期たかは「志賀家の女中頭」を努めていたと聞いているということで、常に大勢の来客があり、たかは接客等多忙な日々をおくったであろうことが推察されます。
 

洋画家中村一雄氏提供の写真2枚
 それでは、ここで奈良高畑時代の志賀家と「裏木戸の付き合い」をしたという隣家の洋画家故中村義夫画伯の御子息で、やはり洋画家の中村一雄氏から提供いただいた貴重な2枚の写真を御覧下さい。
 昭和4年、ささやきの小径をそぞろ歩く志賀家の散歩の様子(同じ日に同じ場所にて撮られたと思われる写真が『新潮日本文学アルバム11』1997年10月25日発行に掲載されています)を撮した一枚と、当時珍しかった志賀邸のベランダにて撮った集合写真で、中列に武者小路実篤と直哉がいます。

*「裏木戸の付き合い」:「今日の君のところのめしは何」と、裏
      木戸から入って来られた志賀さん。中村家から志賀家に鯛を届けたりと両家は親密なつきあいがありました。

以上、坂巻たかが暮らした奈良高畑時代の志賀家の様子を想像していただきたいと思います。

昭和5年、城崎温泉行きに同行

 細田栄氏のお話によれば、この時代にも、直哉は湯治あるいは創作のため温泉に出かけたようで、昭和5年11月頃に城崎温泉に滞在したようであります。この折、たかが同行し、主人直哉のお世話にあたったということです。この封筒(昭和5年11月4日消印)に書かれた差出人の女性瀬渡まつ枝(城崎郡 津居山村)は、たかから直哉の世話係を引き継いだ人ということのようです。その女性とたかとは、その後も連絡を取り合っていたということで、たかが柏にもどった後の昭和9年に年賀状の往来があったことがわかっています。
 昭和5年のこの時期の『日記』は、全集には収載されておらず、この折の城崎温泉行きについての関連事項等不明です。
「年譜」によれば、昭和4年から5年間は「創作が中絶した」とあり、直哉は打開策を求めて城崎温泉に滞在したのであろうか。何故城崎か、「大正六年四月の、エネルギーに充電された創作主体の造形力」(『志賀直哉−その自然の展開−』「城の崎にて」須藤松雄著)を再度得るためであったろうか。


志賀家を去るたか(たか推定年齢29歳くらい)

 女中たかかへる、足掛けにして十二年いた女中なり、伊セ参りして夜行にて我孫子へかへる、
 『志賀直哉全集』第16巻「日記人名注・索引」には、たか(タカ、隆、女中たか)について、「我孫子時代から昭和6年3月4日まで、足掛け12年間、志賀家に仕えた女中」とあります。

見惚れるほど美しく、何か痛々しいたかの写真
たかは昭和6(1931)年3月4日まで、この家で暮らし、ここを去っています。29歳か30歳くらいの時と推察されます。
たかの長男細田栄氏から、寄贈された写真の中の一枚、たかが29歳か30歳くらいの時と思われる写真があります。 写真の台紙には、奈良の写真館の名前(「松岡」)が入っています。
どのような時に撮られた写真なのかは不明ですが、見惚れるほど美しく、何か痛々しく見えるたかがうっすらと微笑んでいるように見えます。
たかが昭和6年3月4日、何故、奈良を去ったのかはまだよくわかっていません。

 また、たかが箪笥の中に大切にしまって置いたという奈良時代のものと思われる写真が一枚あります。細田氏によれば、志賀家の五女田鶴子(たづこ 昭和4(1929)年10月、直哉46歳の時誕生)の世話係(子守)の老女ではないかと思われるという女性の写真です。たかがその最後まで手元においていたということですので、良い想い出とともに時折は取り出して見ていたものかも知れません。
どのような人であるかは全くわかっていませんが、ご紹介したいと思います。写真の台紙には大和天理市の写真館の名「日之出写真館」とあります。
女性の胸の部分には丸いバッジのようなものが二つ付いていますが、向かって左側には「高安」とあり、右側には「14」とあります。

『暗夜行路』が完成され、『志賀直哉全集』(全9巻)が刊行される                                     
「年譜」によれば、昭和12(1937)年の4月、約9年間休載していた『暗夜行路』後篇の最終部分を一挙に「改造」に発表し、16年にわたった唯一の長篇小説が完成しました。同年、9月『志賀直哉全集』全9巻が改造社から刊行されはじめたとあります。
10月、康子夫人・留女子・田鶴子・貴美子が東京に移り、直哉は壽々子・萬亀子とともに学校の都合で奈良に残りました。
昭和13(1938)年、直哉55歳の4月奈良を引き上げて東京淀橋区諏訪町に転居しました。