柏時代の坂巻たか


柏時代(たか推定年齢30歳くらい〜)

故郷に戻ったたかについて
たかが語った志賀先生のこと
生まれ故郷に戻ってからのたかは、志賀直哉について周囲の人達に「先生は厳格な人であった」と、よく語ったものだそうですが、その「厳格な人」によく仕え、心から認め褒めてもらった時の晴れがましい記憶を、主家を離れてもおそらく生涯忘れることはなかったのではないかというのが、筆者の考えです。
一方、後年「沼南村の人は気立てが良く、働きもの」と述懐した時の志賀直哉の脳裏にたかの献身的な働きぶりのことが思い起こされていたのではないでしょうか。
 
互いの中に「強い信頼」という気持ちが生まれた最初は、おそらく我孫子時代の『日記』に「たかもよくつとめたり」とある、大正11(1922)年12月下旬の時点あたりと考えて良いかと思われます。
以来、女中としての忠実さだけではなく、たか自身の健康さと真面目さと志賀家の人々への心からの親愛の情等が理解できる良い互いの関係が、終生続いたであろうと考えられます。
 ところで、たかの徹底した仕事ぶりと性格を、故郷の土地の人々が評価したエピソードとして、「たかが草取りをすると、その後から草が中々生えて来ない」ということと、「男まさりで度胸が据わっていた」という事があったそうで、こうしたことからも、志賀家がたかを認め、長年側においた理由がよく分かるものとなっています。

 
孫に伝えた「志賀先生のこと」
志賀先生のきつい言いつけ−「手を洗え、手を洗え」と
志賀家の言葉−「おもうさま、おたあさま」
 いつの時代とも言えないが、たかおばあさんから聞いたこととして、「志賀先生は家族の皆に常日頃から手を洗え、手を洗え、ときつく言っていたものであった。そこで、家族も使用人も言いつけを守り、皆してよく手を洗ったものであった」とは、たかによく似ている弥生さんのお話です。
 もう一つ、志賀家では、子供達が両親を「おもうさま おたあさま」と呼び習わしていたものであったとのこと。
 康子夫人が、勘解由小路資承(かでのこうじ すけこと)の娘であることから、公家言葉を使用したものと思われます。


柏時代の暮らし
細田正松氏との結婚


  白い割烹着姿のたか  
故郷に戻った坂巻たかは、やがて昭和7年、31歳の時、柏町の水戸屋旅館(現柏市内 柏神社傍 貸しビル業(水戸ビル第1号館))の次男細田正松氏(ほそだ しょうまつ 明治29年3月21日〜昭和62年3月13日 享年92歳)と結婚し、柏町(現柏市東町)に住みました。
たかの御長男細田栄氏によれば、やがてたかは駄菓子屋を営むようになり、その店は「飴屋(あめや)」と呼ばれていたとのこと。 場所はJR柏駅前、そごうデパート側ダブルデッキ下のバスターミナルのあたりであったとのことで、白い割烹着姿で店番をし、また、その白い割烹着を着て上野アメ横の「二木の菓子」まで仕入れに通っていたとのことです。
たかのこの店は、昭和40(1965)年JR柏駅前再開発事業が開始されるに伴い廃業することとなりました。たか65歳頃のことでした。
 写真は、たか65歳頃、正松氏70歳頃JR柏駅前にて撮ったものという。

*我孫子地元のある人が、次の事を教えてくれました。当時は志賀家のような名家に女中として入った女性は周囲から出世をしたと見られ、本人も農家の嫁にはなりにくく、商家の人や勤め人と結婚したものだと。


結婚後も折ある毎に志賀家を訪問
東京市淀橋区諏訪町の家を訪問(昭和15年)
 志賀直哉の『日記』によれば、

昭和15(1940)年1月5日   金 
午后寿々、直吉 万キ、それに寿々の友達杉原同伴国技館、満員(堀口の拳闘)にて入れず言問に行き堤を歩いて浅草、それから銀座  日比谷映画館、銀座を少し歩いてかへる 
柏よりたかとよし来る  珍し、

         *よし:『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」には、「益田ヨシ」我孫子時代の志賀家の女中。『流行感冒』の《石》のモデルとあります。『日本文学アルバム13』(1955年7月25日発行 筑摩書房)に顔写真掲載。

熱海稲村大洞台の家を訪問(昭和24年)

細田たかの遺品の中に、志賀直哉の写真(白黒 「昭和二十四年 十二月八日 六十七歳」と裏書き 直哉の直筆と思われる)が入っていた一枚の薄茶色の封筒があります。
そこには、「世田谷新町の直哉の自宅」と「熱海市稲村大洞台の家」の両方の住所と電話番号、そして行き方が書かれてあります。
「年譜」によれば、直哉は世田谷新町の自宅へは昭和15(1940)年5月、熱海市稲村大洞台の家へは昭和23(1948)年1月に移住しています。ですから、昭和24(1949)年12月当時は両方に家があったということになり、両方の住所を書き記し、たかに「訪ねておいで」と書き送ったものと思われます。


  東京 世田谷区 新町 二ノ三七〇
   電話 世田谷 四九五〇番
    渋谷より玉川電車に乗り
    絃巻(ツルマキ)にて下車、店にて尋ねれば
わかる、

   熱海市 稲村大洞台
        バスは ハタ別荘下
             ノ  下車 
    呼出し電話
        熱海 二八四一番

 なお、細田氏によれば、たかは大洞台の家を一度訪ねていて、直哉と共に熱海の洋食屋「スコット」にも行ったことがあると聞いているとのことで、それは昭和23、4年のことと記憶されているとのことですから、この折のことであったのかも知れません。

 
内田ミトさん(細田たかの末娘)から寄贈された二枚の写真(推定年齢55歳と30代前半)について

 世田谷新町の家(?)を訪問(昭和31年)
「昭和三十一年一月」と太字の万年筆で裏書きされた(志賀直哉の直筆と思われる)一枚の白黒写真には、志賀直哉夫妻と細田たかが写っています。
昭和31年といえば、志賀直哉73歳、康子(さだこ)夫人は67歳くらいになります。細田たかは55歳か56歳になっています。
 この写真について、内田ミトさんによれば、「お互い年だから、これからはなかなか会えなくなるだろうから、一度会っておこう」ということで、細田たかが志賀直哉宅を訪問した時の写真だということです。
ただし、どちらの家を訪問したのかはわからないということでした。写真を撮ったのは志賀家のお嬢さんであったとのことです。
この時期の志賀直哉の東京の家は「世田谷新町」、「渋谷区常盤松」(昭和30(1955)年5月に転居)の両方あり、どちらかは不明ですが、写真 の左端に「石人」が写っていることから「世田谷新町」の方かとも考えられますが、わかりません。

       


内田ミトさんに聞いた母細田たかの印象について
 もっと色々な事を聞いておけばよかった………
 もう一枚の方は、どのような時に撮ったものかはわからないとのことですが、たかが30代前半の頃のものということです。
内田ミトさんによれば、「昔は髪型も着るものも、随分地味ななりをしたものと思う」とのことです。
 こういうことになるのだったら、もっと色々な事をよく聞いておけば良かったと言われながら、記憶を辿っていただき、以上のことを教えていただきました。
 ミトさんは、気持ちのいいほどさっぱりとしたお話しぶりであり、御気性もそのようにお見受けしたので、御母様もそうでしたかと尋ねたところ、「いや、母親はさっぱりした性格というより無口であった」との御返事でした。
なお、細田氏のお話では、「ミトは小さい頃、よく母親(たか)に連れられて志賀家に行っていて、色々な物を貰って帰って来たものであった」とのことでした。

 

初孫を志賀先生に見せに行った細田たか(推定年齢60歳)

 常盤松の家を訪問(昭和36年)
もう一つ、丸山弥生さんの御話では、この後も昭和36(1961)年、「初孫(弥生さんの姉・石川美由紀さん)を見せに、志賀邸を訪問している」とのことでした。この時は、「常盤松」の家の方でしょうか。
細田氏によると「あの時は初孫を背負って行った」ということで、初孫を授かって喜んだたかが、意気揚々と敬愛して止まない志賀先生に見せに行ったという光景が目に浮かぶようです。
直哉は直哉で、そのようなたかをあたたかく見守り受け入れたものであったろうことが想像出来ます。
以上のように、結婚後も機会ある毎に志賀先生を訪ねて行ったたかの様子が偲ばれ、志賀家とたかとは、やはり長年強い信頼の絆で結ばれていたことが理解されます。


志賀先生の葬儀に出席出来なかった細田たか
 細田たかが、70歳を過ぎた頃、脳梗塞を患い、不幸な事にその最後の時を迎えるまでついに通常の生活には復帰出来ず、細田夫人(キヌ子)の手厚い介護を受けたことがわかりました。
 そうした状況のなかで、昭和46(1971)年10月21日志賀直哉が88歳で亡くなりましたが、志賀先生の葬儀には出席できなかったということでした。
 しかし、御遺族のお話をつぶさに伺えば、家族に恵まれた幸せな生涯であったことが良く理解され、筆者は満足して筆をおくことができたのでした。

 
今回の調査の結論として
たかの人生の最高の理解者は
 そして、母たかを語る時の細田氏のざっくばらんな語り口の中に暖かいものを感じ、たかの人生の最も良き理解者は長男栄氏であったという最高の結論を得て、今回の調査がひとまず終了できたことは、筆者にとってもこの上無く嬉しく幸せなことでありました。

「大正6年5月12日撮影我孫子根戸武者小路実篤邸での記念写真」と、「大正15年撮影奈良公園における志賀家の家族写真」の中の女性が、「坂巻たか」であるという確証は今回の調査では得られなかったにしても、筆者にとっては充分報われたという確かな思いがのこりました。

写真は、平成20(2008)年7月17日、白樺文学館に来館された細田栄氏と同夫人で、坂巻たかが暮らした我孫子弁天山志賀邸跡見学時の様子です。

 
その他の事など
細田たかの墓所
  柏市大井 福満寺(ふくまんじ)
   生前、墓所を福満寺内に買っていました。やはり、故郷大井の生家に近い場所に自分の墓が欲しいということであったのです。 

戒名のこと
細田たかの没年は、平成元年10月25日 享年88歳 戒名は『蓬壽妙哉清信女』
福満寺御住職により、戒名に直哉の名の一字「哉」を入れたということで す。

*偶然でしょうか、志賀直哉と同じ年齢、同じ月(志賀直哉は昭和46(1971)年10月21日88歳にて死去)に亡くなられています。

 お忙しい中、貴重な時間を割いてお付き合い下さった細田栄様、同夫人、内田ミトさん、丸山弥生さん、その他御協力下さいました皆様に心からの感謝を申し上げます。
あらためて、ここに細田たか様の御冥福をお祈りいたします。