志賀直哉と小熊太郎吉の交流 その1


志賀直哉と小熊太郎吉の交流

 目次
  
はじめに

1.小熊太郎吉の人物像(教師時代・剥製屋時代)

2.志賀直哉と小熊太郎吉の交流の実際 

1)志賀直哉とそのサロンの人々、そして東京の画家たちを魅了した太郎吉の「鳥のジオラマ(生態標本)」について (越岡禮子氏の講演が機縁で始まった調査)

2)小熊興爾氏独自の「志賀直哉と小熊太郎吉の交流」観

3)その他
小熊太郎吉と杉村楚人冠・河村蜻山との交流について−
我孫子の三奇人とは

3.志賀直哉と小熊太郎吉の「交際」についてのある可能性を探る

4.小熊太郎吉による発見および研究の業績(自然科学)
      (独)国立科学博物館植物研究部標本庫に現在も保管されている太郎吉
の二つの標本(セミタケ・オニフスベ)について


《注記》

はじめに

調査のベースとした『我孫子の生業』
 現在、志賀直哉と小熊太郎吉の交流を知るための手がかりは、『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」と『我孫子の生業』(注1)の中の記述があります。
それで、この二つをベースにして「志賀直哉と小熊太郎吉の交流」に関する調査の第一歩としました。
特に『我孫子の生業』からは示唆に富んだ多くの情報を得る事が出来ました。
この著書に出会ったことで、太郎吉の人間的魅力とその多様性を知り、志賀直哉と充分交流しうる教養と人間的資質を備えていると直感しました。

 そこで、まず、第1章では、『我孫子の生業』の記述を基にし、その内容について太郎吉の孫にあたる小熊興爾氏にひとつひとつ確認をしていただいた上で、教師時代、剥製屋時代を通して太郎吉の人物像に迫りました。

次の第2章においては、志賀直哉と小熊太郎吉との交流について、その「鳥のジオラマ(生態標本)」を介して実際にあったことと、小熊興爾氏による「志賀直哉と小熊太郎吉の交流」観を興爾氏独自の感覚で分析し、表現していただきました。

また、第3章では、小熊興爾氏と筆者との話し合いの中で「志賀直哉と小熊太郎吉の交流について」あらためて考察したこと、つまり、自然科学者でもあった太郎吉の「鳥のジオラマ」の先にある「生きて活動している野鳥」への観察眼あるいは観察力から、作家志賀直哉が学んだものとは何であったかということを示唆して終わります。

最後に、第4章では小熊太郎吉の最晩年の三年間に焦点を当て、太郎吉が成し遂げた自然科学分野における発見・研究の業績とその意義について確認したいと思います。


1.小熊太郎吉の人物像(教師時代・剥製屋時代)

小熊太郎吉の人物像  
  −   関連資料及び聞き取り調査から
志賀直哉と小熊太郎吉の交流の実際に入る前に、太郎吉の人物像についての説明が多少長くなりますが、際だった才能、世に先んじた世界観、教育観、博物観、我孫子の逸材小熊太郎吉と作家志賀直哉との鮮烈な個性の出会いから生じた「何か」を明らかにするには必要不可欠と考えられるので、どうか、お付き合い下さい。
では、まず『志賀直哉全集』「日記」・「手帳4」に特定されている【小熊】とは誰なのかを見てみましょう。

【小熊】が登場する志賀直哉の『日記』と「手帳4」について

【小熊】について、『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」(O50・第16巻50ページという意味、以下そのように)には、次のように特定されています。

【小熊】 我孫子の人。菊判全集(注1)第8巻所収の「手帳4」に名前がある。L41

そこで、該当する『日記』と「手帳4」を見てみます。

『日記』
大正11(1922)年6月1日   木   L41
「百舌」(注2)にかかる、
朝康子その他にて滝井訪問 午后下村(注3) 田内(注4)来る、
小熊来る、児玉来る、橋本も一緒に原田氏訪問
帰ると勝也来ている、夜原田氏来る、滝井も来る、
武者から気持のいい端書来る 素直に此方のいふ事を認めた、

「手帳4」
小熊  六合さんの油絵
    最中一円

【小熊】とは誰のことか
 小熊勝夫氏(注5)の証言
               −  『我孫子の生業』の記述から

 我孫子にはハクセイ屋というのがありました。 ハクセイ屋さん、あの人はとても器用な人でね。 小熊太郎吉(おぐま たろうきち)さんと言いまして、東京の画家の人達からの注文が多かったようです。写生するのにね。 −中略−  提燈を作ったり、蝶の標本を作ったり、器用な人でした。 この人は教員になったぐらい頭がよくてね。
印旛郡なんかへ行ってもね、所々に小熊是登(おぐま これと)って書いた額があるそうです。是登とは提燈の偏を取って号にしたものです。それで歌を読んだり、神社の額を書いたりね。印旛郡から僕の所へ時々電話がかかってくるんですよ。我孫子のものだというけど、これ一体何者ですかってね。

この人は、江蔵地の蝉茸(せみたけ)を発見したり、雷魚とかキノコとかも。生物学者、植物学者なんですよ。

 神主の真似事をやってた時に、あの額(注6)書いたんですよ。これがなかなかの文化人で、志賀さんとの交際もあったように志賀日誌に記されています。 −中略−
 また、志賀直哉との交際もあったので志賀さんが大正十二年三月二日我孫子を去るとき、猪谷六合(いがや くに)(注7)さんの油絵と最中(注8)一円分を贈っている。

白樺文学館が独自で行った聞き取り調査で得た証言

小熊覚三郎氏の証言(聞き取り)
 我孫子市内在住の小熊覚三郎(おぐま かくさぶろう・昭和8年生まれ)氏によると、氏の家(薪炭商 小熊商店・電話28番 参照:「昭和2年調製」我孫子町地図)は太郎吉の家の隣に在ったので、子供の頃、「ハクセイ屋」・「提燈屋(ちょうちんや)」としての太郎吉の仕事ぶりを良く見たものであること。(地図は我孫子市教育委員会から提供されました)
手先が大変器用で、頭の良い人であったこと。また剥製にする鳥の肉をよく分けて貰って食べたことなど、懐かしむように、また楽しそうに語っていただきました。その話しぶりは覚三郎氏自身の子供時分を楽しげに回想しているようでもありました。

小熊興爾(おぐま こうじ)氏に聞いた「小熊太郎吉」像
 上記二つの証言から、志賀直哉の『日記』と「手帳4」に登場する【小熊】は「小熊太郎吉(おぐま たろうきち)」のことで、若い頃は「教師」であったと同時に「提燈屋」でもあったこと、「教師」を辞めた後「ハクセイ屋」となり、「神主」の真似事(注9)もしていたことが判明しました。
その上「なかなかの文化人」で「志賀直哉」との交際があったということ、また、志賀直哉が我孫子を去るにあたり、「油絵」と「最中一円分」を贈っているということも分かって来ました。
 
小熊太郎吉の記述がある『我孫子の生業』(「剥製屋 ハクセイ屋と小熊太郎吉翁」)には、太郎吉の「経歴」・「仕事」・「学問的業績」について詳述されていますが、より詳しく、より深く、紙面では推しはかれないものを求めて、太郎吉の孫に当たり小熊家の跡取りである小熊興爾氏(注10)にさまざま御教示いただきました。
その上で「志賀直哉との交際」とはいかなるものであったのか、小熊家に言い伝えられて来たことや、また、興爾氏自身の目で見たまま、感じたままを述べていただきました。


教師時代の小熊太郎吉

教師としての経歴
小熊太郎吉は明治7年6月18日、我孫子岡発戸(おかほっと)、渡辺太郎左衛門家に生まれ、幼少の頃から向学心に燃え、14、5歳で同地の英泰輔(はなぶさ たいすけ)先生(注11)の寺子屋で学びました。
15、6歳の時東京に出、山岡鉄舟(注12)に書を学び、19歳で教員検定試験に合格し、教員となり千代田村柏小学校(現在柏市)、市川町高等小学校(現在市川市)、我孫子町高等小学校(現我孫子市立第一小学校)を歴任しました。
 我孫子町高等小学校在任時代に婿養子となり、妻はつと結婚し、渡辺姓から小熊姓に変わります。
その後塚田小学校(現在船橋市)勤務となり、明治32年10月12日から明治35年11月16日まで(この間のことについては『千葉県東葛飾郡誌』(注13)に記載事項あり)同校に校長として在任しました。

信念の人としてのエピソード
郡視学と教育観(子供と一緒に考える)の対立
その後、古ヶ崎(こがさき)小学校長(現在松戸市)となりましたが、ある日郡視学(注14)と教育上の問題で論争となり、信念に生きる太郎吉は自分が教職を去れば、郡視学と対等に話が出来るとし、敢然と退職をされたということであります。
 孫の興爾氏によれば、太郎吉は「子供と一緒に考える」という教育論を自説として、郡視学と対立したといいます。
はっきりとした退職年は不明ですが、推測するに太郎吉の退職年は明治35年11月17日以降と思われ、30歳弱での退職ではないかと興爾氏も言われます。なお、郡視学の制度が出来たのは明治34年のことです。
「子供自身の考え」を尊重し「子供と一緒に考える」という教育論は、他の教育思想などの借り物ではなく、太郎吉自身の成長期の過程と環境の中で自ら苦心して体得したものであるということです。
教員以後の小熊太郎吉  
 
小学校を退職した後も太郎吉が地元の子供たちを慈しみ愛し、自作の教具を寄贈したり、真の「児童教育」とは何かを深く模索し周囲にも訴え続けた証があります。

『千葉県東葛飾郡我孫子尋常高等小学校沿革史・第一号』に
見る小熊太郎吉の児童教育観
上記『沿革史』(注15)の明治42年12月7日の項には「我孫子区小熊太郎吉ヨリ左ノ物品ヲ寄贈セリ」とあり、太郎吉が自ら制作した「千葉懸略図」など4種類の地図や、「いろは掛図」、そして「熱帯地鳥類羽毛の標本」(注16)などを子供たちの学習用に寄贈していることが見てとれます。

 

「児童教養」の必要性を説く
また、明治43年4月1日に実施された入学式後の懇話会で「小熊太郎吉ノ児童教養ノの希望談アリ」と記されてあります。
 この「児童教養」の意味を、興爾氏に尋ねてみたところ次のようなお答えをいただきました。
「子供自身の発想を大事にしたい」ということではないかとのこと。
では、今から百年も前に世に先んじて、なぜ太郎吉はこうした考えにいたったのでしょうか。
興爾氏によれば、太郎吉に外側から影響を与えた人物や思想は無く、太郎吉自身の幼年期の実体験から得られた考えであると思われるとのこと。
生家から養家に引き取られ実母の味を知らずに育ち、小さい頃から苦労をし、そのような環境の中で自ら「子供というもの」について深く模索し、体得した賜であろうとの事でした。

知識よりも実物重視の教育観
 筆者は、太郎吉自らが作制した地図や鳥類羽毛の実物標本などを、児童に見せ、実際に触れさせることで知識の獲得以上に、実物を観察し手でふれることが、児童の脳や心の発達成長にとり良い影響を及ぼすという教育者としての信念があったのではないかと推察しています。太郎吉は子供の心に豊かな教養を植えつけるために、自然科学・博物学重視の教育観を持っていたと思われます。(写真の『沿革史』は我孫子市立第一小学校所蔵です。)
 

「どれ、先回りしておらが聞いてこよう」−土地の先生や子供たちに慕われた太郎吉
 ここにちょっと面白い話がありますので紹介します。太郎吉が教職を退き、大正期に入ってからのことですが、太郎吉の博学・博識ぶりと土地の先生や子供たちに親しまれた人柄が偲べるこんな話があります。
 小学校の授業で、子供たちから質問され、答えに詰まってしまった先生が「後で調べてから教えてやろう」と言うと、すかさず子供たちがこう言い返し先生をからかったといいます。
「どうせ太郎吉さんに聞きに行くんだろう。どれ、先回りしておらが聞いてこよう。」


剥製屋時代の小熊太郎吉

太郎吉の剥製修行について
 さて、三十歳弱で決然と教職を退いてから、興爾氏の言葉を借りれば太郎吉は「食べるために」剥製修行の道に入り、二年ばかり後に新しい分野に活路を見いだすことが出来たということでした。

「目で見、手に触れ、心にふれる」という精神
教員時代から自然科学に興味を持ち、「自然科学は目で見、手に触れ、心にふれる」ことがいかに大切であるかを知り、野鳥・昆虫・蝶等の研究に没頭、その精神・成果を太郎吉自身の標本制作にいかしたということです。

ジオラマ(生態標本)を使用した農業教育の振興
学校関係からの注文
時は明治37年、日露戦争当時のこと、折しも新田開発等による食料増産が奨励され、増産を目的とした農業教育が振興し始めていました。
農薬の使用は殆ど無かった時代であるから、いかなる稲の害虫(ウンカ・イナゴ・殿様バッタなど)があるかを、理科標本・教育標本をもって子供達に教え示すという教育でした。
いわゆる、ジオラマ(生態標本)であり、どのような状態で稲に虫がつくのかを見せるというものでした。未だ、『図鑑』が無かった時代であったので標本に頼ったということなのです。
太郎吉が作る生態標本は、東京をはじめ、各地の学校、研究団体から教材用の注文が盛んに来たとのことで、ここ近辺では、当時の取手農学校・取手裁縫学校、印旛農学校・印旛裁縫学校からの注文が特に多かったとのこと。
しかし、太郎吉は材料の仕入れもたくさん買い入れたから、余り儲からなかったとは興爾氏のお話です。
 
太郎吉の感化を受け、我孫子野鳥の会初代会長となった渡辺義雄氏が執筆した『我孫子の生業』には、「古来から近年に至るまで日本経済の基本は、農民の生産する米に依存し、国民生活の安定は、豊作、凶作により左右されたが、先生(注:太郎吉)は苦難の農民生活に思いを寄せ、水稲作りは、病気害虫から守ることが第一であるといわれ、特にずい虫、うんか等(注17)の防除対策に苦心された」とあります。

太郎吉の店と看板について
 太郎吉の店は、我孫子駅前十字路近く(八坂神社の対角線上 現在都市計画に伴い小熊家は移転し、現況は駐車場)にあり、敷地は170坪、建物は4棟あったということを興爾氏から聞きました。
店の戸袋には白く塗ったトタンを張り、黒いペンキでもって「ハクセイト昆虫ノ研究」(トの字は脇に小さく書かれていた)と書かれた看板が昭和25(1950)年まで掛かっていました。当時の町の子供たちはこの目立つ看板を目印・目標にして駈けっこなどをして遊んだものであったといいます。
 まだ漢字が読めない小さい子供達も「ハクセイトノまで駈けっこだ」などと言っては競争をよくしたものだと、興爾氏は懐かしそうに言われます。


2.志賀直哉と小熊太郎吉の交流の実際

1)直哉とそのサロンの人々、そして東京の画家たちを魅了した太郎吉の「鳥のジオラマ(生態標本)」について  (越岡禮子氏の講演が機縁で始まった調査)

志賀直哉が買った太郎吉の「鳥の剥製」について
− 越岡禮子氏の講演から
以前、「楚人冠先生の湖畔生活よもやまばなし」というテーマで、「我孫子の文化を守る会」副会長越岡禮子(こしおか れいこ)氏の講演(注1)がありました。
我孫子の自然と人々をこよなく愛し慈しんだ楚人冠こと杉村廣太郎が、その随筆『湖畔吟』の中で小熊太郎吉の剥製について紹介していることを話された際、「志賀直哉も太郎吉の作る剥製をよく購入したものであった」ということについても少し触れられました。その時から、筆者のなかでこのことがずっと気になっていました。

直哉とそのサロンの芸術家や東京の画家たちが購入した太郎吉の鳥の剥製 
それから、半年ほど後(平成19年8月)幸運なことに、小熊太郎吉の孫にあたる小熊興爾氏にめぐりあうことができましたので、早速、興爾氏にこの点について尋ねたところ、直哉は、太郎吉の「鳥の剥製」を都会に住む知人への土産として用いたり、東京の画家たちの写生用として購入したものであろうということでした。
しかし、今のところ志賀直哉が仲介して、太郎吉の剥製を購入した当時都会に住んだ画家達の名前などは明らかになってはいません。
 もし、太郎吉が記した「顧客メモ」にあたるような資料や『日記』・『書簡』などが、発見されたらと考えると楽しいものがあるのですが。

太郎吉の「ジオラマ(生態標本)」が画家たちの写生用に好まれた理由
大正11(1922)年当時、志賀直哉の『日記』に登場する、直哉の「サロン」の芸術家仲間には、洋画家の原田恭平・睦夫妻、日本画家の児玉素行、橋本雅邦の息子の橋本基らがいました。
彼らも太郎吉の鳥の剥製を購入し、絵画制作の材料としたのではないかと推察されます。
 直哉とその周辺及び東京の画家達を魅了した小熊太郎吉の「ジオラマ(生態標本)」について、興爾氏は大変興味深いヒントを御教示下さいました。 
その「鳥の剥製」ですが、いわゆる「ジオラマ(生態標本)」に画家たちが注目したと考えられ、画家たちに絵心を刺激するとして好まれた理由は、リアルであること、動きがあること、繊細な色彩に富んでいること、そして表情が豊かなことなどがあげられるといいます。

「ジオラマ」は「学校標本」そのものに表情をつけたものということで、技術的に可能なのだとのことで、小首をかしげさせたり、羽、尻尾などに自然な動きを付け感情までを表現するのだといいます。
また、画家たちに喜ばれた鳥の種類には、オシドリ・タマシギ・マガモ・ヒドリガモ・ヨシガモなど色彩が豊かで、繊細な羽模様のあるものであったろうとのことです。

さて、「学校標本」というのは静止した状態で真正面から見るように作るもので、これに動きや表情をつけた美しい標本は絵心を刺激するので、画家が喜んで購入するという事について、奇しくもが楚人冠がその著書『湖畔吟』(注2)「はくせい屋」の中で述べています(下線部分)。

『湖畔吟』
「はくせい屋」から

この村(筆者注:我孫子村)には手先の器用な人が多い −中略− 提燈屋(ちょうちんや)の剥製といっても、提燈屋を剥製にしたのではない。提燈屋の親父が滅法器用な男で、この辺りに鳥の多いのを利用して、盛に剥製をこしらへては東京へ売り出してゐるのである。
この間ある会の席で結城素明君(注3)から鷹の剥製を注文されて送らせたことがある。結城君の談によると、東京で売ってるのは、この村から来たものに少しばかり手を入れたのが多いのださうな。手数が省けるから直接に送らせて呉れとのことであった。
     鳥の多い所だから、随分いろいろの鳥が手に入る。私の宅の庭でさへ三十余種の小鳥が出入りする。中には相当珍しいのもある。そんなのを捕へたら、この辺では直ぐこの剥製屋へ売りに行く。
剥製屋は心得たもので、その肉はそっくり抜き取って持主に返し、羽のついた皮の方だけを三十銭位に買ひとって呉れる。  以下略
                         (昭和三年二月)

なお、ここで確認しておきますが、楚人冠が『湖畔吟』の中で書いた「提燈屋であり剥製屋でもある親父」については、『我孫子の生業』中、執筆者の渡辺義雄氏が小熊太郎吉の事としてこの文を紹介しています。
剥製屋を始めるよりも、提燈屋(ちょうちんや)の方が早く、教師時代から携わっていたと、興爾氏も祖父太郎吉のことであるとしていることを確認しておきます。
 太郎吉は、秋から冬にかけては鳥の剥製を作り、春から夏にかけては虫の標本を作ったということです。
 また、余談になりますが、当時の子供たちにとっては、鳥を捕まえては「剥製屋へ売りに行く」ことは、あめ玉や駄菓子を買うための良い小遣い稼ぎになったということでした。

書家としての小熊太郎吉
提燈屋の「是登、そして是翁」− 剥製や標本の材料採集の折々に 
ところで、太郎吉は書家としても活躍し、剥製や標本の材料の採集に出かけて行っては、あちこちの神社の扁額などに揮毫したといいます。その雅号は若い頃は「是登(これと)」と称し、「是」に手偏、そして「登」に火偏をいれると「提燈」の文字になるという太郎吉独特のユーモアで、還暦以降は「是翁(これおう)」の号を用いたといわれます。
人に頼まれてよく書いたものには「天壌無窮」(大自然は永遠である)などがあり、特に晩年好んで書いたものに「亀如浮水面」(亀のように水に浮かぶ)があります。その意味するところは「自然に逆らわずに生きる」ということで、自然を尊び、自然に従いかつ学ぼうとした太郎吉の生き方が偲ばれるものとなっています。

 
2)小熊興爾氏独自の「志賀直哉と小熊太郎吉の交流」観
 小熊太郎吉の孫である小熊興爾氏は昭和14年9月1日生まれで、祖父太郎吉と共に暮らしたのは僅か四歳までであったので、太郎吉との直接の思い出は余り無いとのこと。それ故、興爾氏の祖母はつさん(太郎吉夫人)と父上の明(あきら)氏から伝え聞いた太郎吉の想い出をたどりながらお話しいただきました。

ここでは、「志賀直哉と祖父小熊太郎吉との交流については、これ以外に言いようがない」とのことで、祖父太郎吉譲りで自然科学の分野に造詣が深い興爾氏独自の感覚でもって表現したものをそのまま引用します。

水溜まり(太郎吉)と雨だれ(直哉)
 直哉という雨だれ(外からの刺激)を受け入れたのが太郎吉。しかし、直哉が我孫子を去った後は、また元の静かな水溜まりに戻ったというのが、二人の関わり合い方で、さらっとしたものであったろう。

イソギンチャクとクマノミ
 互いに溶け込むのは早いが、強い人間関係を結んだとはいえない。
 イソギンチャクとクマノミの関係のようで、それ程の必然性は無い。お互いに触手を持ち合い互いの人と人との間にインパクトはあったであろうが、中々表現しにくい関係であったろう。両者の関係について、しいて、表現すれば上記のようなことであったろう。

 太郎吉自身東京への遊学経験もあり、我孫子の他の地元民よりは、異文化を背景とする人々との付き合いを上手くこなせたであろうから直哉とは自然に付き合いが始まったことであろう。
我孫子駅近くに剥製屋の店を構えていたこともあり、直哉も自然に太郎吉に近づくことが可能であったろう。
我孫子の地元民は家の中から「白樺派の人々」をうかがっていたであろうが、「どこの者だい」と出て来たのが、太郎吉であると興爾氏は述懐されます。

限られた我孫子地元の人々と「白樺派」との交流
当時は、洋服を着た人と話をしただけで変わり者と言われたり、あるいは万年筆を使用しただけで「西洋かぶれ」といわれた時代であったといわれています。
住民は農家が多くその共同体の内側でのみ生活していた我孫子という土地柄で、隔絶した感のある特別な存在としての「白樺派」と地元の人々の交流は極限られたものであったろうと考えられます。


3)その他
小熊太郎吉と杉村楚人冠・河村蜻山との交流について  
− 「我孫子の三奇人」とは
大正12年3月志賀直哉が我孫子を去ったあと、興爾氏によれば、太郎吉は杉村楚人冠(注2)そして河村蜻山(注4)との交際もあったが、直哉とのそれと同様「さらっとしたもの」で、立ち話をする程度のものであったろうと謙虚に言われます。

だが、楚人冠は太郎吉の人と技術を心から認め、親しみとユーモアとをもって『湖畔吟』の中で紹介していることは既に知られている通りです。(写真は小熊覚三郎氏から提供されました)
興爾氏によれば、太郎吉が亡くなった時、楚人冠が心から悲しみこう語ったと言います。

「我孫子の奇人が一人死んだか。おれも含めて。」
 
 小熊太郎吉は、明治7年6月18日に誕生し、昭和18年10月19日に亡くなりました。享年70歳。 教師時代の逸話を読んだ読者にとっては意外な感がしますが、周囲とは争わず相手に合わせるすこぶる温厚な性格で、その傾向が余りに強かったので、それ故に「奇人」と呼ばれたといいます。
既に、教師時代から、太郎吉の関心興味は自然界にあり、特にその晩年期は自然科学分野におけるさまざまな新発見、研究に身命を捧げ、つまらぬ世俗の人事などには最早興味などなかったのではないかというのが筆者の推測するところです。
楚人冠がくしくも言った「奇人」とは、自分の信ずる所に邁進し他を顧みない強い意志の人ということでしょうか。
興爾氏によれば、「我孫子の三奇人」とは、小熊太郎吉、杉村楚人冠、河村蜻山のことであるといいます。
楚人冠がいかに太郎吉の人となりを愛し、その死を惜しんだかが充分想像できるかと思われます。
 太郎吉は昭和18年の春まで剥製制作に携わっていたそうですが、その年の秋にはすでに身体が弱っていたということです。