志賀直哉と小熊太郎吉の交流 その2


3.志賀直哉と小熊太郎吉の「交際」についてのある可能性を探る

大正11(1922)年6月1日直哉の『日記』に「小熊来る」と記された理由とは
太郎吉は志賀直哉の「サロン」の一人になったか?
大正11(1922)年6月1日の直哉の『日記』には、直哉のいわゆる「サロン」の芸術家たちが列記されています。
先ず、日本美術院院友で日本画家の児玉素行(注1)がいます。次は当時小説家志望で直哉の指導を受けていた橋本雅邦の末子の橋本基が登場します。基は後に「座右宝」(注2)の編集に携わることになり、我孫子時代以後も直哉と行動を共にします。
洋画家の原田恭平・睦夫妻(注3)はどちらも洋画家で、恭平は当時院展に籍を置き、大正12年からは春陽会で活躍した洋画家でした。この夫妻は、志賀家が京都に移住した後、子の神から弁天山の志賀邸母屋に移り住み、それから東京に移住しますが、その後も志賀夫妻との交流は続きます。
それから、直哉の義理の従弟で、当時作家志望の高橋勝也、また、元改造社の記者で、作家を志し志賀直哉を慕って大正11年5月から我孫子に居住した滝井孝作らがいました。
良く知られているように、滝井は志賀家が京都に移住した後、遅れること2ヶ月で京都に移住、奈良までもついて行っています。
さらに、この日の『日記』には登場していませんが、詩人でもあり、当時既に『銀の匙』で有名な小説家の中 勘助も、そして、学習院の同窓の木下検二も「サロン」の常連です。皆志賀邸の近くに住み、志賀邸を中心に集う画家や作家たちで、8人を数えます。

直哉は彼らとともに執筆による運動不足解消のためか、連日のようにテニスや相撲をしています。夏は手賀沼での水泳に舟遊び、秋には柴崎まで遠足を兼ねて鴨などの食用鳥を買いに行ったりしています。時には取手まで足を伸ばしたりしています。
冬は手賀沼対岸の大井の氷場でのスケート(注4)、そして雪の降る中を子の神付近の散歩と、昼間は思い切り体を動かし汗を流して遊んでいます。     
また、夜毎の会合では、月見や、レコード鑑賞などを楽しみ、ある時は、少し怖い実話(注5)などに耳を傾けている様子が、『日記』や「手帳」のメモ等からうかがい知ることが出来ます。のちに、京都に行ってすぐの大正12年5月2日の直哉の『日記』には、「我孫子生活では無りょうと戦ふ為めのエナージィを甚だしくついやした」とありますが、以上のようなことであったのでしょう。無聊と戦い、結果として自然に形成された、直哉を慕い、直哉を中心とした画家や作家(あるいは作家志望)の仲間達の「サロン」であったといって良いかと思われます。
そこで、この日の『日記』に「小熊来る」と特に記されてありますが、太郎吉が直哉の「サロン」の仲間に入り、その一員になったということなのでしょうか。この問いについて、興爾氏は「グループの一員になったとは思わない」とのことで、前述したように、太郎吉と直哉との交際は「さらっとしたものであった」とのお答えでした。

「小熊来る」、その理由は不明、しかし………
 すると、この日小熊太郎吉は一体何のために志賀直哉宅をわざわざ訪問しているのでしょうか。 また、何故直哉はその日の『日記』に、「小熊来る」と、ことさら書き記したのでしょうか。
太郎吉が制作した剥製・標本の納品のために、自ら志賀直哉宅を訪問したのでしょうか?興爾氏は「東京の画家たちへの納品であるならば、わざわざ弁天山に持参するというのは、不自然である」と言われます。では、志賀や「サロン」の仲間たちへの納品であるのか、それとも他に理由があるのでしょうか? 「小熊来る」、これだけの短い記述では推理が難しく、その理由は不明です。
 
小熊勝夫氏も「志賀さんとの交際もあったよう」と言っている
しかし、もう一度『我孫子の生業』の中の小熊勝夫氏の言葉を振り返って見ますと、「志賀さんとの交際もあったように志賀日誌に記されている」と言っています。
つまり、小熊勝夫氏もこのただ一度だけ書かれた「小熊来る」を「交際」であると言っていて、単なる製品の納入にやって来たとは受け止めていないのではないかということが考えられます。

志賀直哉と小熊太郎吉の「交際」の意味とは何か
それでは、「サロン」の仲間達とのような社交的なそれではないとしたならば、志賀直哉と小熊太郎吉の「交際」の意味、あるいはその内容とはどのようなものであったのかを推理したいと思います。
 

志賀直哉の家があった弁天山と我孫子駅との通り道にあった太郎吉の「ハクセイ屋」
− 直哉と太郎吉の「交際」についてのある可能性について

(地図は我孫子市教育委員会から提供していただきました)
 
小熊太郎吉は、大正11年の直哉の『日記』には1回しか登場していません。
やはり、ここでも興爾氏は二人の関わりはあくまで「さらっとしたものである」と、繰り返し言われます。
しかし、その陰にある直哉と太郎吉との何か不思議なつながりが筆者には感じられてなりません。その日「小熊来る」と書き留めなければならなかった理由とは、「サロン」の仲間達との「社交的なつながり」とは別の、直哉にとって「より真剣な意味合いの事柄」があったからかも知れません。
興爾氏も直哉と太郎吉との間には、「表面に現れた以上のこと」があったのかも知れないと言われます。
考えてみますと、太郎吉の「ハクセイ屋」の店は我孫子駅から直哉の家がある弁天山への通り道にあります。 直哉は、町に用事で来た折や上京のため我孫子駅へ向かう途中などに、太郎吉の店に立ち寄っては、博学の太郎吉の様々な話に時間の経つのを忘れることがあったかも知れないと推察されます。

直哉は太郎吉制作の「鳥のジオラマ」に何を見たか
あるいは東京の画家たちのために剥製の注文にやって来たり、あるいは受け取りに来ては、太郎吉の仕事ぶりを興味深くあの鋭い目で見つめていたのかも知れません。そして器用に作りだされる鳥の剥製や虫の標本にある自然な動きの見事さ、美しさに感心していたのかも知れないのです。
あるいは、ジオラマを制作するための小動物・野鳥・昆虫・植物などの観察のことや、それから得られる発見のこと、さらには太郎吉の自然観・生命観などに触れるという、その繰り返しの中で直哉が会得した何かがあったのかも知れません。

そのことを、太郎吉側から言えば、太郎吉の普段の仕事を通しての直哉との交流であって、特別な事を伝えているという意識のものではなかったように思われます。
興爾氏の想像によれば、太郎吉自身の世界のことを伝えているという事で、特別なことではなく当たり前のことを話しているという感覚であったろうとのことです。

「生きて活動している野鳥」への太郎吉の観察眼、観察力への強い関心と興味
− やがて、直哉自身が野鳥(野生)の生命へ目を向けるようになる
直哉のサロンや東京の画家達は、色彩が美しく、繊細で自然な動きを捉えた「太郎吉の鳥のジオラマ」を写生のための画材として用いたのであろうと思われます。
が、作家である直哉の場合は「鳥のジオラマ」を通して、その先にある「生きて活動している野鳥」への太郎吉の観察眼あるいは観察力の方に、より強い関心と興味とを持ったのではないかと筆者は推理しています。
人に喜んでもらえる鳥やその他のジオラマを作るために大切なことは、生きている野鳥を虫を小動物を、つまり生きている自然界の対象物を「よく見ること」だということも、太郎吉のジオラマ制作の姿勢から気づかされたという可能性が考えられます。

やがて、大正11年初秋頃から、直哉自身が身近に生息する野鳥に対し、その非常なる関心と観察の目を向けるようになっていったと思われる記述があります。
それは、我孫子時代に顕著な特色として表れる志賀作品の一つのテーマの流れであり、「都会の人事」から「我孫子の自然」、ひいては「野鳥(野生)の生命と生存競争」へと、その観察の焦点を絞り合わせるように推移します。『和解』以後の直哉自身の関心と興味の変化と言って良いかと思われます。
それまでの7年程にわたる我孫子の暮らしの中から、直哉自身が獲得した自然(動植物)に対する観察力と作家としての視力、及び太郎吉との日頃の交際を通して得た「野生」とは何かという自然観・生命観等がヒントとなり、それを助けたということも可能性としてあげられるのではないかと思われます。

創作テーマの一つの流れが顕著になる、キーワードは「百舌」
『百舌』(後『挿話』に改題)から〔未定稿167〕への推移の意味
 大正11(1922)年6月1日の直哉の『日記』には『百舌』にかかる日に「小熊来る」と書かれています。小熊太郎吉が志賀家を訪問した理由が、前述したようなものでないとすると、その日「小熊来る」と書かれた事の意味を探るためには、作品『百舌』との関わりの中からその意味を考察するということも一方法かと考えられます。

『百舌』(後『挿話』に改題)という作品について
作品『百舌』(後『挿話』に改題)とは、大正11年7月発行の日本教育者協会の機関誌「先駆」(第1巻第2号)に発表(初出)された作品で、(明治四十二年正月十一日作)と作品の終わりに記されています。
この作品は、日露戦争(明治37〜)当時「本当にあった事で、直哉の叔父から聞いた話をそのまま書いた」というもので、門司という名前だが、東北地方出身故「モズ」と訛って自らを呼ぶ男が登場します。
この「何所か百舌のやうな感じのする奴で、叉実際百舌のやうに変に惨酷な事が好き」な男の戦場における行動を、直哉は冷徹な作家の目で追い迫り、リアルに描写しています。
この作品のテーマ、「戦争における人間の残虐性あるいは惨酷性」を表現し読者に訴えるために、その獰猛な生態を持つ百舌のイメージをそのまま利用することで、一応成功した作品となっています。
たとえば、戦場において、この男が敵のロシア兵の死体処理をする場面などは、殆ど耐え難い不快感に襲われるほどの直哉の描写力であり、筆者の感想ですが、眼をそらさず撮影された「白黒の記録映画」のような迫真力を感じさせます。
その人間性無視の惨酷さ故に冒頭部分では、登場人物の一人である「退役大尉」に「日本人が敵の死体を尊敬する………か。どうもそいつは少しあてにならんな」と語らせています。

「残虐獰猛という類型的百舌のイメージ」を機械的に利用
しかし、この作品を注意深く読んだ読者は、その男の行動形態が「残虐獰猛という類型的モズのイメージ」をもって描かれていることに気づかされるのではないでしょうか。
挿話部分の登場人物「門司(モズ)」の行動形態は機械的なものという感を抱かざるをえません。
例えば、「百舌の奴、ろくろく射撃もさせずに兵に銃剣で死体をぶつりぶつり上からささしてゐる」とか、その目に余る行動を、「叔父」がたしなめると、喧嘩を買ってくる様子が「眼を据え、顎を一寸突き出して」まさに「実の鳥の百舌」そのものだと表現しています。
それらは、百舌の形態の最大の特徴である鋭い嘴で獲物を捕食する様子や、百舌の威嚇のポーズをそのまま機械的に人間に当てはめただけに過ぎないという印象のものとなっています。つまり、「残虐な百舌というイメージ」が先行しているという印象が強く現れているものとなっています。
やがて、この作品を書き上げて後、百舌の習性が持つ残虐獰猛のイメージは、人間側からの固定観念・先入観であるに過ぎず、野鳥(野生)の生態の真実あるいは本質を捉えたものであるかどうか疑わしいものであることに気づき始めたのではないでしょうか。

そして、直哉の書く物に変化が見え始めます。
それは、百舌の生存競争のための闘いも激烈なものがあるが、そこには人間の闘い(殺し合い)とは本質的に全く異なるものが存在するのではないかという「気づき」から始まっているような気がします。
この直哉の「気づき」に静かに手を添える形で、ヒントの受け渡しが行われることになったのが、小説家直哉と生物学者としての太郎吉との「交際」の本質的意味であり、有りようであったのではないのでしょうか。

〔未定稿167〕に見る沸き起こる「創作」への意志
 野鳥(野生)の激烈な生存競争の姿の把握と表現へ
この作品『百舌』(後『挿話』に改題)を書き上げて後、人間の一方的なイメージや先入観ではない、百舌の生態の冷静な観察から獲得できる野鳥(野生)の生命の躍動感、あるいは生存競争の姿の把握と表現こそが、志賀自身の「創作」なのだということが意識されたのではないかと推測されます。
 志賀の家があった我孫子「弁天山」は、その名にもあるように「全体が蛇の巣といえる」(注6)ほど、蛇が大変多く生息した場所で、蛇と百舌の生存競争がくりひろげられる場面を見ることも多々あったであろうことが想像されます。その激しい生存競争への凝視を通して、野生の生命の躍動感と輝きとを把握し、表現したいという作家としての意識と意欲が沸き起こったことと想像されます。
 その始めの萌芽のような記述の断片が、〔未定稿167〕なのではないかと推理されます。

〔未定稿167〕(全文)
 初秋の晴れた気持のいい朝だった。私はその日の新聞を持って庭の縁台に胡座をかいて沼を眺めてゐた、と、不意に消魂しい百舌の鳴声を、聞いた。それはいつも木の頂上で他を畏かくするあの鳴声ではなく悲鳴に近かい変な鳴声だとは思ったが別に気にかけるでもなく、にを鳥の低く飛び舞ふ静かな沼の表面に眼をやってゐた。が、百舌の変な声は
〔以下空白〕
          〈〔余白書入れ〕     或る朝(我孫子住ひで)〉

さて、〔未定稿167〕は、「大正11年初秋の執筆と推定」(『志賀直哉全集』補巻二(2001年12月版岩波書店)「後記」)されています。
 途中で途切れてはいますが、弁天山志賀邸の庭で、百舌の悲鳴を聞き取り「百舌に迫った危険と闘い」を捉え描こうとしていることが、うかがえるものとなっています。この時点においては、百舌を襲った敵が何であるかは、明確になってはいませんが。
 (未定稿167)は、大正11年7月に『百舌』(後『挿話』に改題)を発表してから、わずかな時間の経過の中で試みられたものといえましょう。志賀直哉にとって、それほどその「気づき」は強いものであり、また、可能な限り早急に書き始めなければならないテーマであったと言うことなのでしょうか。
子供の頃から動物好きの直哉であったこと、また、我孫子時代の早期から、我孫子の自然(動植物)に親しみ、「動物の働作における共通」(〔未定稿156〕大正5年10月28日)にみられるように「生き物への接近」ということがなされていた直哉にとって、それは極自然のことであったかも知れません。
百舌の生態への凝視を通して、野生の生命の躍動感を、輝きを激しく捉え描こうとした作家志賀直哉の創作の苦悩が、この時点から始まったと言えるのではないでしょうか。

 
原題『百舌』に結実した野生の生命の躍動感と輝き
やがて、大正12年3月に我孫子を去り、京都時代の直哉の「手帳」(「手帳16」(大正12年9月頃か?)には、「百舌の親子と地もぐりの話」と書かれたメモを見ることが出来ます。
 大正11年初秋に試み書かれた「百舌と何らかとの闘いの話の断片」は、長い時間を経て、大正14年12月に原題『百舌』(大正15年1月雑誌「不二」に発表・後『矢島柳堂』にまとめられる)に結実することになったと筆者は推察しています。

「さらっとした水の如き交際」の裏側で
                 − 希有な二つの個性と才能とが出会って
さて、小熊興爾氏から見た直哉と太郎吉の交際は、「さらっとしたものであった」とあくまで謙虚に言われます。
しかし、調査を始めて7ヶ月余の間、興爾氏と何回も話しあいを持ちながら、よくよく考えてみると希有な二つの個性と才能とが出会い、表面は淡々とした交際を保ちながらも、実は最も大事な事柄の受け渡しが静かに、そして見事に成し遂げられていたのではないか、ということも一つの可能性としてあるということに気づかされたのです。
興爾氏も、聞き取り調査を進めて来たこの段階で、やはり「表面に現れた以上」のことが二人の間にあったかもしれないと言われます。
 
さて、志賀直哉が我孫子時代に獲得したと推察される直哉自身の自然観の最終到達点ともいえるものが『閑人妄語』の中にあります。
『閑人妄語』は、直哉が自身の人間形成について模索した精神の遍歴を振り返り、その老年期においてみずからの生活信条を綴ったもので、雑誌「世界」(昭和25(1950)年10月号)に発表されたものです。
 その一部分を引用して、この章を終わります。

     動物の世界も強食弱肉で、生存競争は却々烈しいが、何かその間に調和みたやうなものも感じられ、人間の戦争程残忍な感じがしない。つまりそれは自然の法則内の事だからかも知れない。人間同士の今日の殺し合は自然の法則の外である
                       『閑人妄語』


4.小熊太郎吉による発見および研究の業績(自然科学)
  (独)国立科学博物館植物研究部標本庫に現在も保管されている太郎吉の二つの標本(セミタケ・オニフスベ)について

小熊太郎吉最晩年の業績
以上太郎吉の教職時代の鮮烈なエピソード、退職後も子供達を愛し「児童教養」の必要性を進言する人物像、そして新しい仕事「剥製屋」としての才能・活躍ぶりを見ることで、やがて志賀直哉と邂逅する太郎吉の個性・才能・人間性が理解出来ました。

どの時代をとっても太郎吉の光輝く才能と奥深い人間味には感嘆せずにはいられません。
この稿の終わりに、太郎吉がその晩年の三年間をかけて世に遺した自然科学分野における「発見および研究の業績」にも触れておく必要があります。
語り尽くせない程多くの業績の中でも、次の二点はどうしても書き記しておきたいと考えます。

「セミタケ」・「オニフスベ」の発見
『我孫子の生業』の中にも太郎吉の生涯で一番印象に残ると紹介されているのが、「セミタケの発見」と「オニフスベの発見」の顛末についてとなります。

太郎吉晩年の昭和15年8月、布佐町江蔵地774番地(当時)鈴木徳松さん宅に発生したセミタケ(蝉茸・冬虫夏草の一種)を発見しましたが、その成果は「セミタケの新産地」という論文名で東京科学博物館(現国立科学博物館)発行の投稿雑誌「自然科学と博物館」昭和15年10月号に登載されています。その他4件にのぼる論文寄稿を果たしています。

また、昭和17年10月、太郎吉は大変大きなキノコ「オニフスベ」(キノコの一種・オニのたんこぶ)を我孫子町本町、田口宗吉宅地内竹林(現在我孫子市内本町東京ベイ信金がある場所)において、発見しました。長径58p、重さは4キロ。若い人達が気味悪がって竹竿で突いたりしているところ、太郎吉は両手で抱えて持ち上げたとのことで、周りにいた人達が皆驚いたという話が残っています。
この「オニフスベ」は当時川村清一博士の御墨付きを貰い(注1)、「セミタケ」とともに当時の東京科学博物館に標本として寄贈されました。

これら二つの標本は65年後の現在も筑波研究学園都市内(独)国立科学博物館植物研究部(注2)標本庫に、細矢剛博士(注3)はじめ研究者達のたゆまない努力により、大切に収蔵・保管されています。
 
太郎吉はその最晩年の生命をかけて、さまざまな発見をし、自然科学の研究に尽力しましたが、すべてそこに一貫して流れていたのは自然界の対象を「目で見、手に触れ、心に触れる」ということの大切さということであったのです。
 
なお、太郎吉は自然科学の研究において、特に昆虫について不明な点については、当時の北海道大学農学博士松村松年(まつむら まつとし)先生に問い合わせをしたということで、また、鳥類の研究分野で尊敬した人物は理学博士内田清之助(うちだ せいのすけ)先生であったということです。

興爾氏、祖父太郎吉の標本と対面する  
これは余談になりますが、平成19(2007)年12月5日、実に65年の沈黙を破り、太郎吉の二つの標本と孫の小熊興爾氏とは感動の対面を果たしました。
第二次世界大戦をはさんで65年の歳月を経過したものとは思えないほど、完璧な状態で保存された「セミタケ」の標本(ホルマリン液浸標本)を見つめ、興爾氏は喜び感激されました。
また、同日、かねてより行方不明とされていた「オニフスベ」の乾燥標本は十万点にも及ぶ他の標本が眠る収蔵庫の中から発見されました。                 
その大きさと、言い伝え通り我孫子の若者たちが竹竿で突いた跡が数カ所鮮明に残っていたことから、興爾氏により小熊太郎吉のものと特定されました。

(独)国立科学博物館特別展「菌類のふしぎ−きのことカビと仲間たち」(平成20年10月11日〜平成21年1月12日)が開催されることになる

とても、不思議な縁を感じたことがありました。上野の国立科学博物館において特別展「菌類のふしぎ−きのことカビと仲間たち」が開催されることが正式決定されたとのことです。(写真は矢野正男氏撮影)

(「菌類のふしぎーきのことカビと仲間たち展」に展示された小熊太郎吉のオニフスベ)

《注記》
はじめに
(注1)『我孫子の生業(なりわい)』:『郷土あびこ 第4巻 特集我孫子の生業』
 「郷土あびこ」編集委員会  我孫子市史研究センター発行 1982年11月23日
剥製屋 「ハクセイ屋と小熊太郎吉翁」の項  渡辺義雄氏執筆。
上記『我孫子の生業』の中で、渡辺義雄氏による「ハクセイ屋と小熊太郎吉翁」は、小熊太郎吉への敬愛の念をもって書かれているという印象を持っていました。この印象はこの調査が一応の終了をみても筆者の中に遺っていました。 それは何か? この印象はどこから来るのでしょうか。
そこで、筆者は、小熊太郎吉につながる事柄を探して、渡辺義雄(わたなべ よしお)「我孫子野鳥を守る会」初代会長について、生前の氏を知る木村稔氏にお尋ねすることにしました。
以下は、「我孫子野鳥を守る会」第三代会長を務め、現在は「我孫子市鳥の博物館友の会」の会長をされている木村稔(きむら みのる)氏に電話にて聞き取りをしたものであります。(平成20(2008)年6月4日)

【渡辺義雄「我孫子野鳥を守る会」初代会長について】
渡辺義雄会長の人となりについては、先ず、思いやりの人であり、温厚な人である。
36年前の1972年、「我孫子野鳥を守る会」を創設した人。「我孫子野鳥を守る会」とは、千葉県で最初に出来た野鳥に関わる民間のボランティア団体である。
渡辺氏は、我孫子が都市開発の波にさらされ始めた頃、その自然環境を守るべく様々な活動をした人で、たとえば、市内の巨木の持ち主を訪ねては、その木の保存の意義を説き理解を求める活動をした。
また、特に蝶の種類オオムラサキの繁殖及び保存のために、榎(エノキ:オオムラサキの食餌 卵を産み付ける)の積極的な植栽活動をした人である。さらには、(財)山階鳥類研究所の我孫子への誘致運動にも大変な尽力をした人であることは忘れてはならない。
正確な年齢は不詳であるが、70歳代でお亡くなりになったと記憶している。

 なお、筆者が小熊太郎吉と渡辺義雄氏との接点を探したところ、太郎吉による「オホムラサキ」という論文が、当時の文部省東京科学博物館(現 国立科学博物館)の投稿雑誌「自然科学と博物館」(昭和17年1月号)に掲載されてあることがわかった。
その論文には、「オホムラサキは、年1回の発生にて幼虫期が永く、飼育には困難な昆虫であるが、其の困難さが有る為めに趣味も亦深いので蝶類飼育中では第1位と言ふて差支えないでせう。日本特産の蝶で、蛹の雄大さは蝶類中の王者とも云へるべく却々見事なもの」とあり、さらに「昨年7月10日に雌蝶2頭捕獲して食餌とする榎を金網で覆ひたる中へ放置したが、同15日に産卵するのを見た云々」などと続きます。
 小熊太郎吉と渡辺義雄初代会長の二人を繋いだものの一つには、この日本特産で貴重な蝶「オオムラサキ」の種の保存と、繁殖ということであったのでしょうか。
それは、飼育家にとりこの上無い楽しみであるだけでなく、豊かな我孫子の自然を守るための使命の一つであるとも認識されていたことと推察されます。
太郎吉の生き方、自然への思い(自然科学は目で見、手にふれ、心にふれる)を理解し、尊重したのが渡辺氏であり、それ故に太郎吉の遺志を継ぎ榎の植栽等を熱心に実行し推進したのであったのではないでしょうか。
しかし、木村氏によれば、残念な事に現在我孫子においては、この「オオムラサキ」は完全にその姿を消してしまったとのことでした。
 さらに、続けて木村氏に氏自身にとっての「野鳥とは何か」とお尋ねしたところ、「やはり生きて雄大な空を飛んでいる美しさで、剥製にはない生命力。しかし、自然な動きをよく捉えた美しく見事な剥製もあると聞いている。太郎吉さんの剥製がそうなのではないか」とのことでした。

我孫子野鳥を守る会 
会長  間野吉幸(まの よしゆき)
事務局 〒270−1154 我孫子市白山1−9−4 染谷迪夫(そめや みちお)方
    TEL・FAX04−7182−3972

1.小熊太郎吉の人物像(教師時代・剥製屋時代)
(注1)菊判全集:『志賀直哉全集』第8巻 「手帳4」 昭和49年6月5日発行 岩波書店 『我孫子の生業』が書かれた時は、これによったと思われる。最新版は『志賀直哉全集』補巻六 「手帳16」 2002年3月5日発行 岩波書店

(注2)「百舌」:志賀直哉作。後の『挿話』。 大正11(1922)年7月発行の「先駆」第1巻第2号に『百舌』の原題で発表(初出)された短篇。
 「先駆」とは、「教育の権威を確立し、教育の振興を図り、以て国民精神の健全なる発達を期し」て創設された日本教育者協会(主宰は有馬頼寧)の機関誌で、大正11(1922)年6月1日に創刊号を発行している。その後、昭和12年に『志賀直哉全集』が編まれたが、「戦争進行中のこと故、作品冒頭のことばやそれに続く死体片付けの部分にこだわってか、実際には収録されなかった」もので、その後、昭和21(1946)年9月発行の雑誌「座右宝」第4・5号合併号に『挿話』の題名で再掲載された作品。
『志賀直哉全集』第1巻(1998年12月7日発行 岩波書店)所収 
*志賀直哉作『矢島柳堂』4部作となった、原題『百舌』とは別の作品である。

(注3)下村:下村千秋(しもむら ちあき)明治26・9・4〜昭和30・1・31 小説家。
「ねぐら」が志賀直哉に手紙でほめられ、以後直哉に兄事。代表作『天国の記録』。
『志賀直哉全集』第16巻「日記人名注・索引」から

(注4)田内:詳細不明

(注5)小熊勝夫(おぐま かつお):明治40(1907)年我孫子市に生まれる。我孫子市文化財審議委員会委員長、我孫子市史編さん委員、我孫子市史センター会長歴任。

(注6)あの額:我孫子市緑にある香取神社改築前に太郎吉が書いた扁額があったが、建て替え時に取り外された。山岡鉄舟に筆遣いを習った太郎吉の書き残したものは現在も小熊家に多数保存されているとのこと。

(注7)猪谷六合さん:猪谷六合雄(いがや くにお)のこと。オリンピック選手千春の父。 『焚火』作品中のKさんのモデル。
【猪谷六合さんの油絵について】:大正12年3月、志賀直哉が我孫子を去るに当たって世話になった御礼にと、小熊太郎吉に「六合さんの油絵」を贈っているが、孫である興爾氏自身は見たことがないと言われる。
その油絵はどのようなものであったのか大変興味を覚えるものであるが、
『東葛流山研究18』(流山市博物館友の会発行・平成11年10月25日)に越岡禮子氏が執筆された「六合さんの油絵」−志賀直哉ゆかりの一枚の絵−という文章がある。
 その中に猪谷六合さんの絵の記述がある。それは、どのような絵かといえば、「その絵は青い野菊のような花が清々しく描かれていて」とある。ただし、この絵は宇田川三之助が酒代がわりに秋谷家に置いていったものということである。
さらに、『手賀沼と文人』(秋谷半七著 1978年8月10日 崙書房)を読むと、この絵について次のような説明がある。「絵といえば、武者さん(武者小路実篤)は我孫子を去るにあたって、世話になった三造さんに一枚の絵を贈っている。三造さんは、この絵を箪笥にしまって大事にしていた。それは六号の油絵で菊の花が画かれてある、地味なものであった。右隅には「IGAYA」という署名があった。この絵は武者さんの書斎に飾られていたものだと三造さんはいっていた。これが、ある偶然の機会に私(秋谷半七氏)の手に渡って、今私の書斎にかかっている」。
 「六合さんの油絵」は、志賀直哉が小熊太郎吉に贈ったものが一枚と、武者小路実篤が宇田川三之助(三造)に贈り、その後さらに秋谷氏に渡ったものが一枚あったということで、つまり二枚あったということになるのであろうか。

(注8)最中(もなか):うさぎ屋最中。うさぎ屋は大正2年現在地(台東区上野1丁目10番10号)に開店。 創業者初代谷口喜作は富山県出身、「初代が直哉と親交があった」との4代目現当主の返答あり。 大正11(1922)年8月19日付け実篤あて直哉からの葉書にその名が見える。

(注9)神主の真似事:小熊興爾氏の説明によれば、大正の末から昭和初期にかけて我孫子緑にある香取神社は荒れ果て宮司もいなかった。この間、小熊太郎吉が香取神社の維持管理を臨時に努めていたが、この時期の神職は松戸神社から来てもらっていたとのこと。第二次大戦が始まり戦火が激しくなり、鉄道が不便になってからは柴崎神社の宮司(湯下氏・ゆげ)に変わり、現在に至っている。

(注10)小熊興爾(おぐま こうじ)氏:小熊太郎吉の孫にあたる。昭和14年生まれ。我孫子市内在住。自然科学の分野に造詣が深い。

(注11)英泰輔(はなぶさ たいすけ)先生の寺子屋: 参照 『我孫子の生業(なりわい)』「寺子屋」の項、 『筆子塚資料集成 千葉県・群馬県・神奈川県』 編集国立歴史民俗博物館 平成13年3月31日発行

(注12)山岡鉄舟(やまおか てっしゅう):天保7年6月10日−明治21年7月19日。幕臣、政治家。剣、禅、書の達人。鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15の歳に52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。

(注13)『千葉県東葛飾郡誌』:大正12(1923)年6月5日発行2230ページに小熊太郎吉の記述が有る。
(教育)塚田尋常小学校、明治二十二年塚田村の独立と共に、法典小学校より分離し同年十月十日開校し、前貝塚行傳寺を仮教場とせしが同二十九年五月に至り、現校舎を建築せり、現今三学級職員三人にして、開校以来の単級学校訓導及び校長左の如し。−中略− 小熊太郎吉 自明治三十二年十月十二日 至同三十五年十一月十六日 以上学校長  −以下省略−
太郎吉は25歳から28歳まで塚田尋常小学校の校長を務めた。

(注14)郡視学(ぐんしがく):旧制の地方教育の行政官。教育の指導監督、教員の任免などを行い国の教育方針の徹底をはかった。郡視学の制度は明治34年に始まる。

(注15)『千葉県東葛飾郡我孫子尋常高等小学校沿革史』:我孫子尋常高等小学校となった明治41年4月初代校長となった近藤伊之吉校長は、赴任とともに『学校沿革史』の書き起こしを始め(近藤校長手書きによる)、それはいくつかの断絶を経ながら現在に至っている。
『我孫子第一小学校100年史』(昭和48年3月11日発行 我孫子第一小学校百周年祝賀協賛会 ダイヤモンド社)より

(注16)熱帯鳥の標本:『沿革史』には、熱帯地鳥類羽毛(六)とある。小熊興爾氏によれば、箱の中に鳥の色々な部位の羽を6枚並べ、説明を付したものであったろうとのこと。
その他、千葉懸略図  府懸管轄図  大日本帝国図  東葛飾郡略図   いろは掛図
(以上何レモ自製)と記されている

(注17)ずい虫、うんか:
ずい虫(にかめいが さんかめいが)22〜34o 幼虫が稲の茎に食入し枯死させる。
『原色 日本蛾類図鑑 下』より
うんか 半翅類。米などの実の汁を吸い、実が入らないようにする。体長4〜5o前後
  『原色 日本昆虫図鑑 下』(竹内吉蔵理学博士 保育社 昭和41年2月5日発行)より

2.志賀直哉と小熊太郎吉の交流の実際 
(注1)越岡禮子(こしおか れいこ)氏の講演:筆者は、我孫子の文化を守る会副会長越岡禮子氏の講演「楚人冠先生の湖畔生活よもやまばなし」(平成19(2007)年3月23日(金)於 けやきプラザ)のお話の中で、「志賀直哉も太郎吉さんの作る剥製をよく購入した」と言われたのを聞いたことがある。
文化フォーラム 手賀沼を愛した先覚者・楚人冠〜新聞記者として、ふるさと運動家として〜 主催我孫子市教育委員会 NPO法人 ACOBA

(注2)『湖畔吟』(こはんぎん):杉村楚人冠著 大正12年から昭和10年にわたって綴ったエッセイ集。
当初三巻に分けて公刊された。第1『湖畔吟』は昭和3年に朝日新聞から刊行。第2は昭和7年『続湖畔吟』、第3は昭和10年『続々湖畔吟』で、日本評論社から刊行。
                  『湖畔吟』解説より

杉村楚人冠(すぎむら そじんかん):1872−1945
本名廣太郎(こうたろう)。朝日新聞の記者であり、随筆家としても活躍。当時の手賀沼の様子を描写した作品を残す。夏目漱石や石川啄木と交流。大正12(1923)年、我孫子に移住。以後亡くなるまで在住。邸宅が現存。晩年には我孫子の若者や有志を集め、俳句の作り方などを指導し、今日まで続く「湖畔吟社」を発案。
  「第二回杉村楚人冠展」解説より 2008・2・1〜2・15(於アビスタ)
主催我孫子市教育委員会文化課 

(注3)結城素明(ゆうき そめい):1875−1957 日本画家 東京生まれ。東京美術学校卒。日本画近代化に活躍  作品「囀」(さえずり) 「薄光」など
『日本美術院百年史』

(注4)河村蜻山(かわむら せいざん):「蜻山は、昭和13年48歳の時に、我孫子のバーナード・リーチ窯後に深草窯を開き、陶作活動を開始しました。そして、楚人冠や水原秋桜子を始め多くの文化人とも交流を温め創作活動の糧としました。我孫子では、大正から昭和にかけて白樺派の文人が、相互の交流や創作活動を行っていましたが、地元の人々との交流はあまり活発ではありませんでした。これに対し蜻山は、杉村楚人冠が町の人を集め始めた「湖畔吟社」に参加して俳句を楽しんだり、自宅に町の人を招きたびたび会食を行っていました。また、手賀沼周辺の景色や野草、農作物などのスケッチに歩くなど、手賀沼周辺の自然を愛し、地元にとけ込んだ生活を送りました。」
 図録「陶芸家 河村蜻山展」(主催我孫子市・我孫子市教育委員会 平成9年1月)より

*「昭和13年 陶芸家河村蜻山氏の歓迎会(三樹荘の自宅にて)」と説明書きのある集合写真(『みんなのアルバム』所収・我孫子市内在住小熊覚三郎氏所蔵)に蜻山の隣りで微笑んでいる小熊太郎吉の姿が見える。
この写真も「自宅に町の人を招きたびたび会食を行って」の一枚か。太郎吉と蜻山との交際があったことが知られる。
また、小熊太郎吉の孫の小熊興爾氏によれば、太郎吉の息子の明(あきら)氏は蜻山の作品を納める箱を制作していたという。

3.志賀直哉と小熊太郎吉の「交際」についてのある可能性を探る
(注1)児玉素行(こだま そこう):明治23年5月11日、長野県渋温泉に生まれる。明治39年下村観山に師事。大正4年日本美術院院友となる。大正9年、号を「素行」と変える。大正15年第13回院展に《山の湯》が、昭和7年第19回院展に《晩秋》が入選する。昭和41年2月、東京都文京区根津にて没す。
                            『日本美術院百年史』より
『大正期 我孫子在住の作家たち』によれば志賀直哉の『日記』(大正11年〜同12年3月2日)に見る、往来回数は29回を数える。我孫子時代の直哉の「サロン」の仲間の一人。

(注2)『座右宝』(ざうほう):座右宝刊行会発行 編集責任者橋本基 1926年11月 奈良京都の東洋美術の写真を集めた大型豪華本。 

(注3)原田恭平・睦夫妻(はらだ きょうへい・むつ):我孫子の子ノ神の別荘に住んでいた洋画家夫妻。恭平は春陽会の第一回展にパステル画を出品。志賀家が京都へ移住した後留守番に移り住んだ。恭平の雅号は聚文(しゅうぶん)。睦も洋画家。
『大正期 我孫子在住の作家たち』によれば、直哉の『日記』(大正11年〜同12年3月2日)に見る往来回数は46回。直哉の「サロン」の仲間。
          『大正期 我孫子在住の作家たち』・『日本美術院百年史』より

(注4)大井の氷場でのスケート:「沼向うの氷の切り出し田圃でスケートもやっている。出来合いの朴歯の歯をぬき鎹金を打ってスケート下駄にして滑ったという。(『大正期我孫子在住の作家たち』兵藤純二著 我孫子の文化を守る会発行 1979年3月31日)より

志賀直哉の大正11年の『日記』には、

1月7日 午后 大井に氷を見に行く、暫く下駄にて氷滑りをする、以下略

1月8日 午后、皆にて大井に氷滑りに行く、未だ歯を入れない足駄の台にカスガイを打ちしものにて滑る、滝井一番うまく、木下 橋本 その次、自分は一番下手 以下略

(注5)原田君の話:『志賀直哉全集』「手帳3」(昭和48年版)に次の記述がある。
直哉が興味をもって聞いた話なのであろうか「手帳」に書きとめている。
原田君の話、
原田君の今六十余りになる父君の幼い時の話で(濱松在)のその村に何所からかライ病の老婆が来た、「自分が死んでもこんな病氣があっては尚更の事誰れも葬ってくれる者もないであらうから、生きてゐる内どうか皆で埋めて貰ひたい」かういったさうだ、
村人もあはれに思ひ、望み通り生きながら葬る事にして、棺から節をぬいた竹づつを立て、
中で鉦(カンカンと叩く)の音のする間、毎日一度づつ水をつぎ込んでやる事にして埋めてやった、そのカネの音はそれから十日程続いたが仕舞ひにしなくなった、今はその場所に観音堂が建てられ子供の病氣に利くといって参詣人がよくあるといふ事だ、これは原田君の父君の幼年時代の本統の話である、(十一年七月一日 昨夜聴く)

(注6)「全体が蛇の巣といえる」:『近代作家追悼文集43』(平成11年2月25日発行 やまに書房)「志賀さんと我孫子」田中耕太郎執筆(昭和46・10・26)より
 志賀さんが大正十二年の早春に我孫子を引き払われた後のことである。私は、一緒にすでに空屋になった家の裏山を散歩した。小径は日なたぼっこをしている小蛇で一杯であった。蛇は我々の足音に驚いて、さっと音を立てて右左の叢の中に逃げこんだ。全体が蛇の巣といえるこの山には道理で弁天山という名がついている。
我孫子は蛇が多いところと見える。我々の住居(天神山三樹荘内)にも大きな蛇が巣くっていて、誰かが大木の枝と間違って握って肝をつぶしたことがある。動物の好きな志賀さんは蛇も好きだったかどうか、聞いてみる機会を失った。

4.小熊太郎吉による発見および研究の業績(自然科学)
    (独)国立科学博物館植物研究部標本庫に現在も保管されている太郎吉の二つの
標本(セミタケ・オニフスベ)について
(注1)「オニフスベ」:『原色日本新菌類図鑑U』今関六也、本郷次雄監修 平成元年5月31日発行、保育社  p.209, 第133図版。
川村清一博士:キノコの分野草分けの人。

(注2)(独)国立科学博物館植物研究部:植物、菌類・地衣類、藻類など多様な生物、つまり動物を除く全生物の進化多様性および系統分類を明らかにする研究を行っている。
標本をベースにした研究を中核に、分子系統解析、形態分析、遺伝子解析なども行い、総合的研究も進めている。 茨城県つくば市天久保4−1−1「(独)国立科学博物館 概要2007」より

(注3)細矢剛(ほそや つよし)博士(理学):(独)国立科学博物館 植物研究部 研究主幹 同館収蔵の10万点もの標本のデータベース化と維持管理に取り組む。専門はキノコ・菌類の基礎的研究で、地味で苦労の多い研究とのこと。
研究論文に「歴史的菌類標本庫の再整理とデータベース化〜国立科学博物館の菌類標本庫の現状と展望〜」がある。