志賀直哉と回春堂


『和解』以後の志賀直哉と荒井茂雄医師(回春堂)
        − 直哉の坐骨神経痛の痛みに共に闘う

目次

1.荒井茂雄医師(荒井医師、回春堂)の経歴 (写真は荒井家より提供されました)
     
2.参考にした資料 − 『郷土あびこ4 我孫子の生業』「医者 草分けの人々」
 
回春堂にあった自転車 − 志賀直哉の小説『和解』に登場

3.『和解』以後の直哉と荒井医師
              − 荒井医師は志賀家のホームドクター
 
1)大正11年は22回の往診
 
2)「今年の日記は殆ど病床日誌なり」− 直哉の坐骨神経痛と家族の病気について
 
荒井医師の治療について − さながら「直哉と荒井医師共に闘うの図」

    往診のついでに将棋の相手

4.我孫子を去る志賀直哉から荒井医師への御礼の品について
 
1)秀邦氏 寒山拾得・蘇鉄・兎や最中二円

2)掛け軸 「秀邦氏 寒山拾得」について

5.その他の調査項目 − 『手賀沼と文人』を読んでわかったこと
 
1)上野山清貢の「牛の絵」について

 2)原田聚文の絵について

直哉の周辺にいた画家、原田聚文とは誰か?

   ある日突然、原田南(原田ミナミ)さんが白樺文学館に来館されてわかったこと
  
   結論:聚文とは洋画家原田恭平のこと

《注記》

1.荒井茂雄医師(荒井医師、回春堂)の経歴
荒井茂雄(あらい しげお)医師の経歴について、『我孫子の生業』の記述を基に荒井家に確認をしていただいたものを、先ず記しておきます。  

明治7年8月1日−昭和4年3月6日(56歳)
旧名菊松。明治27年2月28日に改名
明治23年7月28日 東京慈恵医院医学校第一夏季中試験二級及第
明治24年7月31日 東京慈恵医院医学校前期大試験二級及第
明治25年11月19日 医術開業前期試験及第
明治27年7月28日 眼科第二回手術実習終了
明治27年7月28日 東京慈恵医院医学校医学全科卒業
明治28年6月20日 医学開業後期試験及第
明治28年12月22日、我孫子に回春堂を開院 (22歳)
大正5年、我孫子尋常高等小学校初めての学校医として委嘱される

荒井茂雄医師が登場する場面 『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」(第16巻 2001年2月26日発行 岩波書店)より
B101、103 (第3巻101ページ、103ページ以下そのように)
L4−7、9、16、19、21、22、26、29、42、68、69、80−82、
84

2.参考にした資料 − 『郷土あびこ4 我孫子の生業』「医者 草分けの人々」

本稿を書くにあたり、『郷土あびこ4 我孫子の生業』「医者 草分けの人々」(小熊勝夫氏執筆)(我孫子市史研究センター 1982年11月23日発行)を参考にしました。
小熊勝夫氏による、地元の人ならではの詳しい記述があり大変有意義な参考資料となりました。
さて、当時「回春堂にあった自転車」について特筆しておく必要があると思います。そこから志賀直哉と荒井医師との「つながり」が見えてくるかと思われます。

回春堂にあった自転車−志賀直哉の小説『和解』に登場 
作品中、緊迫した場面に自転車が使われている。
志賀直哉の小説『和解』の中で、直哉が重病の長女慧子(さとこ)を抱えて駆け込んだ回春堂の荒井茂雄医師は、明治28年12月22日開院しています(『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」の解説文には明治29年10月とあるが、これは間違い。荒井家に確認済み)。
それは、東京慈恵医院医学校を卒えて22歳の時でした。
故郷、我孫子地元は大歓迎で、幹事13名を選び花火を打ち上げたりして町内をあげて祝宴を催したとあります。
 時代の移り変わりと共に、往診は馬から人力車、自転車へと変化して行きます。
小説『和解』(大正6年10月発表)の中で、大正5年7月30日の晩、慧子の急病で直哉が回春堂の自転車を借り、慧子の頭の熱を取るための氷を買いに停車場前の菓子屋や、東京の小児科医と麻布の家とに電報を打つため急いで停車場へ向かう場面が描かれています。
 
すると氷を取りに行った使が何所にも氷はありません、と云って帰って来た。医者は、「半左衛門所へ往って見たか?」と訊いた。
「半左衛門とこにもありません」と答へた。
「停車場前の菓子屋にあるがな。其自転車を借りて自分で往って来よう」と自分は云った。
自分は東京の医者も呼ばなければならぬと思った。自分は紙と筆を借りて其小児科の医者と麻布の家とへの電文を書くと医者の自転車で急いで停車場へ向かった。灯りなしで暗い町を急ぐ時、かういふ時落ち着かないと衝突なぞするぞ、と云ふやうな事を考えた。
氷は菓子屋にもなかった。前日の嵐で沼向うから来る筈のが来なかったから、今日は何処にもありますまいと云った。自分は当惑した。

       『和解』(『志賀直哉全集』第3巻 1999年2月8日発行 岩波書店) 所収 

偶然に希有な体験をした少年(当時推定年齢8歳)の目撃談
 その中に自転車のことが書かれている。
もう一つ、興味深いことに、この晩、偶然回春堂を訪れ志賀直哉一家の騒動を目にしたという秋谷半七少年の証言があります。ここでも、当時まだ珍しかった自転車のことが書かれています。

     この夏のある晩である。私は眼を悪くし、町の医院回春堂に行った。診察を待って土間のかまちに腰をかけていた。この医院は古い茅葺きの家で茂右衛門さん(筆者注:荒井家の屋号)といった。入口をはいると広い土間がある。左手は広い畳の部屋、その向うがまた畳の部屋で診察、治療室であった。 一隅にベッドがあり、反対側に治療用の机や椅子があった。 土間の右手は薬局室で、他の部屋と板のわたりで連絡していた。
 土間のつきあたりは、引き戸を隔てて勝手の土間、その左手が居間、客間がつづいていた。そして、その土間には当時この町には数少い二十八インチの自転車が吊台におかれてあった。私は自転車を眺めていた。
 この時、突然、浴衣の人達が六・七人とび込むように入ってきた。先頭は津川三蔵さんのおかみさん、「こんばん」と赤く書かれた提燈をさげていた。つぎは小さい赤ちゃんを抱いた志賀さん、白い浴衣の裾は露でぬれていた。 その後が奥様、女中たちがつづいている。赤ちゃんの急病だ、と私は思った。
   
                秋谷半七著『手賀沼と文人』「志賀直哉」(1978年8月第1刷発行 崙書房)


3.『和解』以後の直哉と荒井医師
− 荒井医師は志賀家のホームドクター

大正8(1919)年2月3日付け、志賀直哉から木下検二宛はがき(『志賀直哉全集』第17巻 書簡番号254番 2000年7月7日発行)には、おそらく荒井医師のことであろうと思われますが、次のように書き送っています。

昨日は失敬 留女子は風邪と一緒にハシカが出たのださうだ、さうときまれば反って安心だ、此位で済めば反って幸ひだと思ふ、御医者の事御心配ありがたう
今かゝってゐる医者も割りに自信を持ってやってゐてくれるので安心してゐる、我孫子とは大変気が楽でいい、


1)大正11年は22回の往診
兵藤純二氏著『大正期 我孫子在住の作家たち』の「志賀直哉日記往来表」によれば、荒井医師は、大正11年1月1日から大正12年3月2日までに22回志賀家に往診に来ています。

2)「今年の日記は殆ど病床日誌なり」
−  直哉の坐骨神経痛と家族の病気について

大正11年の冬は珍しく厳しい寒さで、弁天山の庭の土が一尺も凍り鍬が通らず鶴嘴で掘らねばならない程で、そのためその年の初めから春頃まで、直哉が坐骨神経痛に罹り、大変な痛みに襲われ苦しんでいます。 「終日神経痛にて苦しむ、きりでもむといふやうな痛み、のみで削られるといふやうな痛み−腹が立つ痛みである」(大正11年2月7日)と書いています。
そのために『暗夜行路』の執筆もままならなくなってしまいます。家族にも癇癪を起こし、当たり散らしています。その他、幼い娘たちや妻康子(さだこ)の歯痛頭痛などの記述がちりばめられ、神経痛も八十日目となる4月26日(強羅温泉滞在中)の『日記』には、「留女子セキし始めてより三十二日目 今年の日記は殆ど病床日誌なり、早く切り上げたきもの」だと言っているほどです。

荒井医師の治療について
− さながら「直哉と荒井医師共に闘うの図」

では、大正11年の直哉の『日記』に荒井医師が登場する回数は22回ありますが(大正11年1月19日 万亀子の誕生にも立ち会っています)、特に、直哉の坐骨神経痛の治療のため、どのようなことを施したかを見てみたいと思います。その治療の様子は、さながら「直哉と荒井医師共に闘うの図」といったところでしょうか。


大正11(1922)年2月8日    水
終日痛む、
明方殊に苦しく、早く回春堂に来て貰ひヘバトキシンといふ薬を注射して貰ふ、
午后橋本東京より笠間医師の薬を持って帰ってくれる、
夜その薬をのむ、
神経痛の此痛みが幾日も続く事はかなわぬ。大声にうなる、
夜から便所にも起たぬ事にする、

 *ヘバトキシン:鎮痛剤のことか

(回春堂の名前入りガラス製薬瓶は我孫子市教育委員会所蔵。矢野正男氏撮影)

大正11(1922)年3月8日     水
午前痛み烈しく
荒井医師に来て貰ひ、ヘバトキシン一筒半を腰とハギとにさして貰ふ 四時間程楽になる、
夕方より痛む、湿気罨法にてしのぐ、

ハギはふくらはぎのこと。
湿気罨法(あんぽう)は温湿布で蒸しタオルみたいなものか

大正11(1922)年3月9日     木
夜中三度湿気あん法をする 腰幾らかよく膝から下痛む、薬草のパップを夜が明けるとして貰ふ、八時半頃ヘドロトキシン?一筒を回春堂に差して貰ふ、(脚に)唇と舌の先しびれる、一時全くよくなる、二時間程して又痛み出す、
午后母上見える、銀行の事お頼みする、七百円森村よりかりる事にする、都合四千円になる、夜痛む、

パップ:巴布。医薬品と油性成分を混ぜたものをあたためて紙や布につけ、皮膚
筋肉、関節などの炎症部にはること。オランダ語のPAPより。
『志賀直哉全集 第13巻 日記注』から。
ヘドロトキシン:正しくはヘトドロトキシンでふぐ毒のこと

大正11(1922)年3月10日    金
痛む、朝早く回春堂に来て貰ひフグの毒素
よりとれる前日と同じ薬をさして貰ふ、(はぎに)唇、舌、咽までしびれる、
二時間程して烈しくいたむ事前日と同じ、終日苦しむ、
笠間医師此我孫子の悪しき由いひし由 豆州長岡温泉をすすめし由、梅雨期此所(注:我孫子弁天山)にゐる事
最も危険といひし由、どの程度に用心しようか?
康子の歯痛む、

さて、3月11日以降、注射を止めてパップやアスピリン服用に切り替えてからは、幾らか痛みも和らいできます。ただ、アスピリン服用を薦めた医師は誰なのか『日記』からはわかりませんが、このアスピリン服用が新たな苦痛を誘う(注1)ことになります。
また、直哉は家族と女中二人を伴い、4月16日から5月19日までの一ヶ月余り、温泉療養のため箱根強羅に滞在しています。
これ以後、直哉の日記には坐骨神経痛の烈しい痛みについての記述は少なくなります。
筆者は、回春堂の往診場面22回を通してお読みいただくことをお薦めしたいと思います(『志賀直哉全集』第13巻『日記』大正11年)。何故なら、以上記した数回の場面だけでは、激痛と闘う直哉と荒井医師との一体感が充分伝わらないような気がしますので。
なお、当文学館に医師の息子を持つスタッフ(星)がおり、荒井医師の直哉に対する治療について尋ねたところ、現在から見てもなかなか適切なものという評価でありました。
          
往診のついでに将棋の相手
また、荒井医師は、往診のついでに直哉とその仲間たち(サロン形成の人々)の将棋の相手をもしています。

大正11(1922)年6月6日    火
回春堂来て万亀子に種痘。
滝井 中氏来る、 回春堂と滝井の将棋三度共滝井負ける、
見てゐて一寸面白し、
夕方、山本実彦夫婦来る、「寿々」(注2)の印税受取る、橋本も一緒になる、
夜一寸原田君夫婦来る、
山本の帰りを送って皆で滝井の家まで行く、
帰って露伴の風流艶魔伝を読む、中々しっかり書いてある、
ビールを飲んだ為めに夜中腰少し痛む 明け方アスピリン一つのむ、

なお、『我孫子の生業』にも、「当時我孫子在住の白樺派の人達と回春堂との交わりは深く碁、将棋の相手でもあった」と書かれています。

 

4.我孫子を去る志賀直哉から荒井医師への御礼の品について

 以上、いわゆる『和解』以後も荒井医師と志賀直哉一家との結びつきは殊の外強いものがあった事がわかりました。医者としての技術は勿論、患者の痛みを理解し誠実に向き合う暖かい人柄を、直哉は認め信頼を置いたのだと思われます。

 1)秀邦氏 寒山拾得・蘇鉄・兎や最中二円
 さて、やがて大正12年3月、直哉一家が我孫子を去ることになりますが、荒井医師への御礼の品として、直哉の「手帳」のメモ(「手帳16」『志賀直哉全集』補巻六 2002年 3月5日発行 岩波書店)には次のように記されています。

荒井   秀邦氏 寒山拾得
     蘇鉄
     兎や最中二円
 
手帳のメモには、荒井医師の名が一番最初に書かれ、贈られた品物の内容も断然トップになっています。そこには、直哉とその家族にとって、やはり、最も重要で無くてはならない存在であったということが示されているように思えます。
 また、荒井医師は昭和4年3月6日、56歳で亡くなりましたが、直哉は奈良から香料を贈っています。

2)水墨画 「秀邦氏 寒山拾得」について
 実は本調査は、水墨画「秀邦氏 寒山拾得」の発見があって始まりました。白樺文学館のスタッフ(竹下)が、患者として通う「アライ歯科クリニック」(JR我孫子駅南口前)の院長荒井英徳氏が、回春堂の荒井茂雄医師のひ孫にあたることがわかったのです。
このことが御縁となり、荒井家の御厚意により、昨年、橋本秀邦(注3)作「寒山拾得」の掛け軸をお借りし、白樺文学館において展示することが出来ました(なお、現在は展示しておりません)。
この「秀邦氏 寒山拾得」発見の顛末については、東京新聞・千葉中央版(平成19(2007)年8月18日)に、「志賀直哉 しのばれる地域との心の交流−懇意の医師に寄贈 水墨画見つかる」のタイトルで紹介されました。

 さて、小説『和解』の舞台としての我孫子の回春堂については、すでに色々な著作の中で紹介され言い尽くされている感があります。
それでも、まだ小さい項目でよく分からない点があるような気がします。そうした箇所に分け入って見ると思わぬ発見があるものです。
それらについて、「その他の調査項目」として書き記しておきたいと思います。

 

5.その他の調査項目 − 秋谷半七著『手賀沼と文人』を読んでわかったこと 

1)上野山清貢の「牛の絵」について

志賀さん自身も、神経痛をわずらい、町の回春堂の往診をうけていた。この町で交際のあった人といえば、この荒井医師以外あまりなかったように思われる。志賀さんは記念として、荒井医師に一枚の油絵をおくった。
それは、上野山清貢(一線美術)(注4)という人のかいた「牛の絵」である。 

                『手賀沼と文人』「志賀直哉」から

この点について、荒井家に確認したところ確かに「牛の絵」をもらったが、ある人に貸したまま未だ戻って来ないとのことでした。  

2)原田聚文の絵について

志賀直哉さん宅には原田さんという画家がよく出入りしていた。この人の絵は現在の荒井歯科医院(当時の回春堂医院)に一枚残っている。荒井歯科医(注5)によれば、原田さんは洋画から日本画に変った人で、荒井さん宅にある絵は絹地に画かれた日本画であるが、表装されて立派な軸物になっていた。それは、秋の岡の風景を画いたものだが、どことなく洋画的な手法が感じられ、渋味のうちにも明るさを思わせるものである。左上には「昭和十年秋、原田聚文」と墨書してあった。        

『手賀沼と文人』「沼の周辺にいた芸術家たち」(1978年8月発行)から

 この絵の行方についてもよくわからないとの荒井家のお答えでした。

志賀直哉の周辺にいた画家、原田聚文とは誰か?
ところで、この「志賀直哉宅によく出入りしていた原田さんという画家」、「原田さんは洋画から日本画に変った人」で「原田聚文」という名前の持ち主とはいったい誰のことでしょうか。
そこで、画家の「原田さん」について、『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」を探すと
二人いました。 一人は、【原田周平】、もうひとりは【原田恭平】として解説されています。

【原田周平】(原田、原田君、原田氏、原田夫婦、原田夫妻、原田君夫婦、原田氏夫婦)
 我孫子の子ノ神の別荘に住んでいた洋画家。志賀家が京都へ移住した後に留守番に移り住んだ。のち日本画に転向した。

【原田睦子】(原田、原田夫婦、原田夫妻、原田君夫婦、原田氏夫婦)原田周平の妻

また、もう一人は、
【原田恭平】 我孫子の人。 春陽会の第一回展にパステル画を出品した洋画家か。
となっています。
さて、どちらを選んだらよいのかわからなくなりました。どちらにももう一つの名前「聚文」が入っていません。
そこで、『日本美術院百年史』でさがすと、原田恭平のところに「聚文」とあり、妻は原田睦、娘は原田麻那(1922〜2006)とありました。

ある日突然、原田南(原田ミナミ)さんが白樺文学館に来館されてわかったこと
平成17(2005)年11月3日、原田南さんが白樺文学館を訪ねて下さいました。姉の原田麻那さん(平成18(2006)年没)が入院していた茨城県内の病院に用事で行った帰り道、ふと懐かしくなって我孫子駅に降り立ち、御自分が生まれた場所(旧志賀直哉邸跡)を尋ねたら、目の前に白樺文学館があるのを見て当館をお訪ね下さったのです。
この折、御自分の誕生の場所にて記念写真を撮られ、文学館の貴重な資料として戴くことができました。

さて、原田南(ミナミ)(はらだ みなみ・洋画家)さんは【原田恭平・睦夫妻】の次女で、大正14年9月18日、我孫子弁天山志賀直哉邸で誕生した方です。
姉の麻那(まな・染織家 国画会会員 1922〜2006)さんは、大正11年1月17日、我孫子 子の神の別荘で生まれ、直哉の『日記』にも2回登場(注6)しています。
 当時の直哉の『日記』によれば、その時の産婆は、後に滝井孝作夫人となった篠崎リンであったようです。
原田家は志賀直哉一家が我孫子から京都へ移住した後、留守番として志賀邸本宅(注7)に移り住み、直哉からは「ただでよい」と言われたが、睦が家賃として毎月5円を送っていたということです。
やがて、昭和3(1928)年世田谷三軒茶屋に越し、その後昭和5(1930)年に東京世田谷区世田谷5丁目2849番地にアトリエを建築し転居したということでした。

結論:聚文とは洋画家原田恭平のこと
原田恭平・睦夫妻は志賀直哉の『日記』(大正11年〜12年3月2日)に多数回登場します。『大正期 我孫子在住の作家たち』「志賀直哉日記往来表大正11年1月1日〜12年3月2日」(注8)によれば、志賀家との往来回数は46回を数えます。
大正11年当時、直哉の周辺にいたいわゆる「サロン」(注9)形成の仲間の内の二人ということになります。

南さんの父上原田恭平(明治28(1895)年〜昭和11(1936)年)は静岡県浜松の生まれ、原田京平という名前を姓名判断で恭平(きょうへい)と変え、聚文(しゅうぶん)は雅号、一生洋画家であって日本画に転向したということはないし、周平という名を名乗ったことはないと、その後の数回に及ぶ聞き取り調査で判明しました。
また、南さんは「原田恭平は、院展洋画部解散後は春陽会に参加し、大正12年第一回展に「秋の日」を出品している」と言われ、『日本美術院百年史』の記述とも整合します。
 母上は、洋画家で国画会会員の原田睦(はらだ むつ)であり、昭和59(1984)年9月に亡くなったとのことでした。
原田南さんがアメリカに戻られた後の平成19(2007)年中、何度も(10回)国際電話をかけて来て下さり、当館スタッフ(矢野)が誠意をもってお話を伺いました。南さんも御心を許して下さったのでしょう。おかげで、以上のような新たな発見がありました。
南さんの現在のお名前はMINAMI ASTROLOGOといい、ニューヨークにお住まいです。
平成19(2007)年の秋、筆者も一度お電話を受けましたが、日本がなつかしいと盛んに仰っていました。
もう一度白樺文学館でお目にかかれる日があることを心から願い、父上、母上そして「志賀さん」についての思い出話を伺いたいものと思っています。
 
以上、回春堂にあった「原田聚文の絵」に関する記述から、直哉の我孫子生活の周辺にあったサロンの仲間の内の【原田恭平・睦夫妻】について明らかになりました。
                                


《注記》
(注1)アスピリン服用:「出家」とタイトルのある〔未定稿173〕(大正十二年正月十三日 我孫子にて)に、「神経痛を二タ月程前に起こし、その為め毎日アスピリンを錠剤で二つ三つ或は四つ呑む、それを呑まねば痛みがしのげない。仕方なく呑む。それが一ト月程続くと、今度はその薬から胃酸過多症を起こす。只さえ、運動不足になってゐる所に薬が胃を害する薬だから、屹度神経痛のあとには【胃】酸過多症を起こすのだ。すると、今度は頭が悪くなる。神経衰弱にかかる。総てがじれったいやうな物憂い気持で癇癪が起こって来る。我慢しようとすれば尚、変になる。細君がマゴマゴする。細君の間抜けがさらに間抜けになり、わきで焦々される事から細君までが一緒に神経衰弱のやうになる。云々」などとある。  
『志賀直哉全集』補巻二 より

(注2)「寿々」:大正11年4月20日発行。改造社刊。 題せん 志賀直温
定価2円80銭。  小僧の神様・城の崎にて・ 好人物の夫婦・ 流行感冒・ 焚火・
和解など創作十三編を収載。

(注3)橋本秀邦(はしもと しゅうほう):1881〜1954年1月14日。橋本雅邦の三男として東京に生まれる。本名 得。 秀邦の号を得て、画家として自立した。後に雅邦作品の箱書きや鑑定家として一家を成した。

(注4)上野山清貢(うえのやま きよつぐ):1889−1960 北海道江別生。小学校の代用教員を辞め上京。1912年太平洋画会研究所に学ぶ。黒田清輝、岡田三郎助に師事。関根正二と交友。1924年帝展初入選。 1950年一線美術会創立会員。1953年北海道新聞社文化賞。「牛の絵」が有名。 夫人は小説家 素木(しらき)しづ。 

(注5)荒井歯科医:「(荒井茂雄医師が)昭和4年3月6日、56歳で亡くなってからは、長女高嶋政子(高嶋家に嫁す)が東京女子医専学校を出て弟和夫が歯科医院を開業するまでの間、父のあとを継いでいた」と『我孫子の生業』(「医者 草分けの人々」)にある。
ここに言う、荒井歯科医とは『和解』に登場する「医師の息子」で「和夫」のことと思われる。

(注6)志賀直哉の『日記』に見る原田麻那:
大正11(1922)年1月16日  月

午前中より離れに入っていたが、仕事出来ず、
一寸昼寝、
夜も早くね、
夜十時半、原田君の所から車夫迎ひに来て、篠崎急いで出かける、

大正11(1922)年1月18日  水
雪 寒
午后三枚程書く、
夜風邪気、
夕方原田氏の所から児玉さんの方を散歩する
雪の降る中を歩く内あつくなる、
前夜十一時原田氏の所で女児安産  ブルジェーその他を見る、
日本の人と似たり寄ったり、
十一時過ぎより康子腹いたみ出す、皆起きて、
出産の用意をする、
雪五六寸積もる、
〔予記〕タンク此日より使へる、

大正11(1922)年1月28日   土
晴 温
一昨日より神経痛悪し、仕事も出来ず不愉快、
午前六時就眠、九時半起床
午后二時就寝、五時半起床、
万亀子七百メ強は六百九十メが本統にて、今日又計る 七百五十メ、
原田氏赤児タン毒にてはなきかと篠崎いふ、心配、その為橋本上京
〔発信〕山脇、我孫子へ来る事をすすめる、
〔受信〕利弦、有島

*篠崎 志賀家の看護婦
『志賀直哉全集』第13巻より

(注7)志賀邸本宅:「広報あびこ 1988年3月1日号」掲載『志賀の書斎の青年画家たち−三岸好太郎の我孫子スケッチ−』には、「志賀が大正12年3月京都へ転居した後の沼沿いの本宅に原田恭平(聚文、春陽会出品者)が住み」とある。

(注8)『大正期 我孫子在住の作家たち』(兵藤純二著 我孫子の文化を守る会 崙書房 
1979年3月31日刊 「我孫子市史研究」第四号(我孫子市教育委員会)所収論文)
「志賀直哉日記往来表(上京含まず)大正11年1月1日〜12年3月2日」:志賀直哉の原田家訪問は8回、原田家の志賀家訪問は38回を数える。

(注9)「サロン」:志賀直哉の『日記』(大正11年1月1日〜12年3月2日)には、直哉の周辺にいた芸術家たちが多数回登場します。筆者はこの時期、志賀直哉の周辺にいた芸術家達とその活動を指すのに「サロン」を使用。
参照:中村一雄著『奈良高畑の志賀直哉旧居−保存のための草の根運動ー』には、奈良高畑時代、「高畑界隈に住んでいた画家・文士達が、直哉の家を中心に集まり、それがいつのまにか、高畑サロンの呼び名で親しまれていった」とある。中村一雄氏によれば、「高畑サロン」を形成するメンバーは20余名。
志賀直哉を慕い、我孫子弁天山志賀邸の近くに住み、志賀直哉邸を中心に集まった画家及び作家、或いは作家志望の人々は8人を数える。

【我孫子時代志賀直哉のサロンを形成した人々】
児玉素行(こだま そこう):1890〜1966 明治23年5月11日、長野県渋温泉に生まれる。明治33年上京し、下村観山に師事。 大正4年日本美術院院友となる。大正9年1月、号を「素行」と変える。大正15年第十三回院展に《山の湯》が入選。昭和41年2月文京区根津で没した。志賀直哉の『日記』(大正11年1月1日〜同12年3月2日)に見る往来回数は29回。 

大正11年、楚人冠公園下の茅葺きの一軒家から天神山の三樹荘に転居。志賀直哉の『日記』大正11年2月28日には、「児玉さん柳の家へ引移る筈」とある。           
 『日本美術院百年史』第5巻・ 野口澄夫編著『続続あびこガイド余話』・ 兵藤純二著『大正期 我孫子在住の作家たち』( 以下、直哉の『日記』(大正11年1月1日〜同12年3月2日)に見る往来回数はこれによる)より。

原田恭平・睦夫妻:(はらだ きょうへい ・ むつ):原田恭平 明治28年から昭和11年(1895〜1936) 静岡県浜松の生まれ。原田聚文は雅号。洋画家。大正4年第二回院展洋画部に「男の顔」で初入選。院展洋画部解散後は春陽会に参加し、大正12年第一回展に「秋の日」を出品した。

妻の睦  ?〜昭和59(1984)年9月 洋画家 国画会会員 女子美卒業。
志賀直哉が大正12年3月京都に転居した後、子の神から弁天山志賀邸本宅に原田夫妻が移り住んだ。
志賀直哉の『日記』(大正11年1月1日〜同12年3月2日)に見る往来回数は46回。
 『日本美術院百年史』及び原田南氏からの聞き取り調査による。

橋本 基(はしもと もとい):日本画家。橋本雅邦の末子。我孫子時代、志賀家の崖の上の離れに妻仲子、長女春子と三人で住んだ。作家志望で直哉の指導を受けていた。後『座右宝』編集の仕事で活躍した。 志賀直哉の『日記』(大正11年1月1日〜同12年3月2日)に見る往来回数は46回。      
 『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」より

滝井孝作(たきい こうさく):明治27・4・4〜昭和59・11・21 小説家。俳人。俳人としてスタートし、「改造」の編集などに携わっていたが、それに飽きたらず創作活動に入った。志賀直哉を慕い、我孫子、京都、奈良と移転。大正12年に志賀家で看護婦をしていた篠崎リンと結婚した。奈良高畑時代の直哉の「高畑サロン」のひとりとなった。
志賀直哉の『日記』(大正11年1月1日〜同12年3月2日)に見る往来回数は131回。

「大正11年2月 最初の妻りん病死。 同11年5月24日、志賀直哉のすすめで、我孫子の楚人冠公園下の茅葺きの一軒家に移居。 同11年8月、子ノ神の旧内山別荘に移る。ここで『無限抱擁』を書いた。現在の寿二丁目二十三番 小暮好三郎別荘である」(『大正期 我孫子在住の作家たち』より)。 平成14年11月我孫子市は斜面林を保全する目的で、庭園部分約2350uを購入した。別荘部分は現在小暮氏の長女秋元氏の所有である。現在の住居表示は、寿2−22−19「瀧井孝作仮寓跡(寿古墳公園)」の標識(我孫子市教育委員会による)がある。

『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」・『続続あびこガイド余話』より。

参照:「我孫子の思出」(『瀧井孝作全集』第7巻 昭和54年3月25日発行 中央公論社)、

「志賀さんの奥さん」(『同』第10巻 昭和54年6月25日発行 中央公論社)

高橋勝也(たかはし かつや):明治27・3・15〜昭和53・8 直哉の義母浩の兄高橋豊夫の長男。直哉の従弟。当時作家志望で直哉の側にいた。大正10年柳宗悦が転居してからは 天神山三樹荘に住む。『続続あびこガイド余話』・『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」より。
『十一月三日午後の事』(大正7年11月執筆)に登場する「根戸に居る従弟」のことと思われる。
 志賀直哉の『日記』(大正11年1月1日〜同12年3月2日)に見る往来回数は37回。

木下検二(きのした けんじ):明治29・5・2〜昭和56・3・27 児島喜久雄の甥。学習院の同窓。東大哲学科中退。大洋漁業に勤務。のち大洋ホエールズ社長。
大正10年柳宗悦が去ったあと書斎を譲り受け、あと田中耕太郎に譲った。
大正11年頃、志賀直哉、滝井孝作、橋本基、高橋勝也と共に「回覧雑誌」をつくった。
大正12年1月21日(日)の志賀直哉の『日記』に、「〆切日なり 自分未完16枚 木検十五枚、滝井十二枚、橋本未完、」とある。「日記注」によれば、「前年(大正11年)頃から、志賀直哉、滝井孝作、橋本基、木下検二、高橋勝也の五人で回覧雑誌を作っていた。」とある。
大正12年2月8日の直哉の『日記』に「木下我孫子をひき上げかへる」とある。
志賀直哉の『日記』(大正11年1月1日〜同12年3月2日)に見る往来回数は31回。
『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」より 

中 勘助(なか かんすけ):明治18・5・22〜昭和40・5・3 小説家、詩人、随筆家。明治42年、東大国文科卒業。 大正2年、夏目漱石の推薦で『銀の匙』が「東京朝日新聞」に連載され、作家として認められた。その後、大正9年12月暮、我孫子白山、高嶋宅に寄寓し、日記体の随想文『沼のほとり』の執筆にとりかかっている。志賀直哉と交際した。
 
ただし、「当時、勘助氏の家から、およそ七、八分のところに志賀直哉氏が住んでいた。したがって二人の間にはかなりの行き来があった。このことは直哉氏の日記で明らかである。しかし、不思議なことに、中氏の「沼のほとり」には直哉氏のことは全然書かれていない。」
と秋谷半七著『手賀沼と文人』(「中勘助」)に書かれているように、志賀直哉に対する他の芸術家たちのあり方と中勘助とのそれには、微妙に異なる趣きがあることを感じる。

志賀直哉の『日記』(大正11年1月1日〜同12年3月2日)に見る往来回数は34回。
『志賀直哉全集』「日記人名注・索引」より