184.「柳宗悦と棟方志功」

―知られざる棟方志功の世界―
第77回面白白樺倶楽部開催報告

講師

石井頼子氏 (棟方板画美術館学芸員)

期日

2007年10月12日(金)18時30分より

場所

当館コミュニティールーム

石井講師
石井講師
去る7月13日の面白倶楽部例会で鷺さん(河井寛次郎のお孫様)に講演をいただきましたおり、石井講師が同行されました。そのご縁で本日の開催となりましたが、今回は京都から鷺さんがお見えになりました。特別な縁に結ばれた棟方志功と河井寛次郎の二人が、この白樺文学館で再会したような気がして、更には本日のテーマから柳先生までも加わっていただいたような不思議な気がいたしますとのことで講演は始まりました。

本日の講師、石井先生は棟方志功のお孫様であり、鎌倉市にある棟方板画美術館の学芸員をなさっておられます。今回の講演では、棟方最晩年の一年間の足跡をたどった映画「彫る―棟方志功の世界」を通してその人となりを紹介していただいた後、柳宗悦との師弟愛について熱のこもったお話を展開していただきました。ちなみにこの映画は1975年、毎日映画社で制作され、ベルリン映画祭短編映画部門グランプリ、芸術祭大賞、キネマ旬報文化映画第一位作品賞等を受賞した名画であります。

 

1.映画「彫る―棟方志功の世界」より

1903(明治36)年 、青森県青森市の腕のいい鍛冶職人の家に生まれた棟方志功(以下、棟方)は18歳の時、雑誌「白樺」に載ったゴッホの「ひまわり」を見て画家になろうと決心。そのころの棟方は寝ても覚めても『ゴッホゴッホ』と言っていたそうです。周りの人々は『風邪ひきスコ(志功)』と呼んでいたほどです。また棟方自身は当初、「ゴッホとは油絵」のことだと思っていたそうです。

その後、1936(昭和11)年、34歳の時、國展(國画会)への『大和し美し』の出展を機に陶芸家濱田庄司を介して柳宗悦(以下、柳)の知遇を得、生涯の師弟の交わりを持つに至ります。また、この年は『日本民藝館』オープンの年でもありました。その時の出会いの印象を柳は「版畫室の中では唯一彼の作品のみがずばぬけて見えた。まもなくその場で人間に逢った。それは繪よりもまだ珍しい存在として映った。作物と人間とは私を即刻に捕へた。」(『工藝』七十一号・昭和十一年十二月刊)と、率直な驚きをもって述べています。

棟方の作品には、故郷青森(津軽)に題材をとったものが多く見られます。『東北経鬼門譜』はその代表作で、棟方は「自分の生まれた東北は日本の鬼門にあたる。豊作という言葉を聞いたことのない土地で、これは土地の宿命だ。」と言っています。この作品は六曲一双の屏風の真ん中に鬼門仏を置き、その左右に菩薩、羅漢、行者、人間、そして人間にもなり得ない曖昧模糊とした心を持ち、生まれてくることのなかった水子達の姿を描いた構図で成っています。鬼門仏が自分の体を二つに断ち割ってすべての不幸を包み込んでくださる・・飢餓ばかりで救いのない宿命を背負った人々を仏の力を借りて幸いあらしめたい・・いわば抜苦代受にすがる東北人(棟方)の必死の『祈り』の想いが作品に込められています。

棟方の原点はネブタと凧絵だと言われています。少年時代、棟方は凧絵の名人から絵の手ほどきを受けたそうです。映画の中で棟方が凧絵を描くシーンは実に圧巻です。まるで早回しのようなスピードで、瞬く間に畳半畳ほどの凧絵が描き上げられていきます。「描いて描いて描いて描いて、手に覚えさせたものだから、何十年たっても、ああして描くことが出来るんですよね。」と石井さん。棟方の中に『職人芸』の部分があったことを実感するシーンでした。

この故郷津軽の厳しさを象徴する冬の海峡に高橋竹山の津軽三味線が時に力強く、時に悲しげに響きわたります。全盲の竹山と左眼の視力を失くした棟方。宿命的な土地に生きる津軽人の生命力が、それぞれの芸術を生んだともいえるのでしょう。

 

2.知られざる棟方の世界・・・「想い」と「構成」の棟方、「美」の柳

前述した『大和し美し』は民藝館買い上げの第1号になったわけですが、柳が棟方に売値をきいたところ「700円」と言う。柳は「高すぎる200円にまけろ」と言う。結局のところ250円で手を打ったという話が伝わっています。その棟方が初めて柳邸(日本民藝館)を訪れた時のこと。応接間に飾られた『松絵の大鉢』にいたく感動し、「バーナード・リーチの作品ですか?」と尋ねたところ、柳は「九州(二川)の名もなき職人、美など考えてもいない職人が作ったうどんを捏ねる鉢だ。君(棟方)の父上は鍛冶職人だそうだが、いつか君もお父上の仕事の価値(美)を理解するときがくるだろう。名(名声)よりも作品が立派であれば、その中に美が生まれる。」と言いました。今まで有名になることだけを目標に創作に取り組んできた棟方でしたが、この言葉に棟方は天地が逆転するほどの衝撃を受けたそうです。これが棟方と『民藝』との出会いでした。そしてまた、名も無き職人の一人であった父のことを、こんなに立派な先生が認めて下さることに、感激し、涙が止まらなくなったと言います。講演でこの運命の出会いを語るたびに石井さんは涙を禁じえないそうです。棟方の感動は、そのままお孫様に受け継がれたのです。

再会を喜ぶ鷺さん
再会を喜ぶ鷺さん
この後棟方は、昭和36年柳が亡くなるまで、出来た作品(板画)を必ず2点、柳の元に持参しました。「お気に召せば、1点は民藝館にお収め下さい。もう1点は民藝館の維持の為にご用立ていただければ幸いです」という理由からでした。柳との出会いから亡くなるまでの25年間とその前後に制作された板画作品のおよそ三分の二、特に戦前に作られた代表作のほとんどが日本民藝館に所蔵されているのはそのためです。

「わだばゴッホになる」と願った棟方は、ゴッホについてこう語っています。「哀しさを持っている絵描きでねえ。これ程哀しさを真実に見つめた絵描きってないでしょうね。ゴッホなんてなあみんな騒がしそうに聞こえてるけど、そうじゃない。静かで、静かで、静かで、たまらなく静かなもんですよ」と。この言葉に棟方が自分自身を重ねているように思えると石井さんは語ります。私たちが映像などを通して知っている棟方はパフオーマンスに富んだ、いわば奇行の人の印象が強いようですが、実は「愁い」や「哀しみ」といった世界を好む人だったと石井さんは語ってくださいました。

「家での棟方はとても静かな人だった。何よりも『仕事をする人』という印象がある。子供の頃、仕事をしている棟方の姿を見ているのが好きだった。映画の中では歌を歌ったりしているが、実際は、鼻息と、ウッウッと息を詰め、ふっと吐き出す音しか聞こえなかった。」

派手な棟方と静かな棟方の二面性。棟方の作品を鑑賞するとき、私たちはこの二面性を感じながら見ていくべきなのでしょう。

華厳譜 華厳譜
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昭和11(1936)年秋、板画『華厳譜』制作。「仏の慈悲の光が毘盧遮那仏に集約され、その光があまねく衆生を救う」という華厳経の世界を、棟方は、毘盧遮那仏を中心に置き、その左右に釈迦如来と阿弥陀如来、普賢菩薩と文殊菩薩、さらには経典には関係のない風神と雷神のようなものまでを配した「23柵(点)」から成る作品にしました。これは一種の曼荼羅のようなもので、全体を通して見てはじめて一つの作品になるわけです。棟方の構成力の程が示されています。これに対し柳は、作品の出来栄えを褒めながらも、もっと静かな良い世界が生まれるかもしれないという思いで数点の改作を求めました。民藝館に残る改作前と改作後の作品を見比べると、構成を重んじた棟方と、美意識を優先した柳と、二つの世界が感じられます。「どちらが良いとか悪いとか、そういう問題ではなくて、柳の思いに応えるべく、新たな棟方の世界を開くことが出来たということに着目したい。」と石井さんは語られました。

同様のことが前述した『東北経鬼門譜』(昭和12)でもありました。左右10mを越す大作の巨大な構図全体が、棟方の『想い』の象徴でした。ところが、柳先生はこれはこれで良いと認めながらも、その中で両端の黒衣の人物(水子)と、一人の羅漢像がとりわけて素晴らしいので、『抜き摺り』をして欲しいと棟方に命じられました。故郷への激しい祈りの想いをその構成に込めた棟方と、絵画として見た作品の鑑賞に重きを置かれた柳先生と、師弟の『想い』は根底から違うのですが、そのおかげで棟方の『想い』から生まれた『東北経鬼門譜』と、柳の『美意識』から生まれた『東北経鬼門譜』(3点作)の二つが誕生したのです。

ところでこの後棟方は、柳の三回忌を過ぎるまで、望郷の作品群を一切作らなかったといいます。ここに棟方の深い想いを感じます。棟方なりの師に対する「けじめ」であったのでしょうか。

一般的に知的な柳宗悦、直情的な棟方志功と思われがちですが、「実際には柳の方がより一層感覚的なように思われ、そこが面白いところだ」と石井さんは語ります。棟方は作品の構想段階から全体像を考えに考え、非常に計算を尽くした作品構成をしていました。加えて、下絵を描くまでに、構想と手慣らしとに充分な時間をかけているからこそ、最終的に板に向かった時にはあの圧倒的なスピードで彫ることが出来るのです。

二人の認識の違いは作品のサイズにも及んでいます。柳は「作品のサイズは板木のサイズ。板木ぎりぎりに紙を切り落とし、余白を残さない。」対して棟方は「作品のサイズは紙の大きさ」ととらえて、板木の周りの部分にまで彩色を施すこともありました。「板画の美は余白の美。白い部分があってこそ絵が生きる。」と言っています。

また、言葉の捉え方にも微妙な差があります。「私は指が5本ある人間なんか描きたくない。」この棟方の言葉を、柳は「鬼のようなものに心惹かれているのだ」と捉えていますが、棟方は「鬼のような力強い人間が、3本の指に抑えた力で作品を描きたい。」つまり、力を抑えてする仕事こそ本来のものではないか、と考えているのです。このことを石井さんは、「板画の仕事は他力の在り方から生まれるもので、自分の意図したものをそのまま直に出すことは出来ません。下絵を描き、裏にして板に貼り、彫って、摺って、摺り上がったものを表に返すまで結果が見られないものです。剥き出る力を抑えること、それが板画の在り方であって、棟方はそれを自分の在り方と捉えていたのでしょう。」と説明されました。

柳の審美眼によって見出された棟方はやがて数々の国際大賞を受賞し「青森のムナカタ」が「世界のムナカタ」となりました。

ネブタと棟方
ネブタと棟方

不生 不生
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その根底には柳の教えがあり、「民藝」というものの考え方がありました。最終的に棟方の自分の作品に対する基準は「柳先生の『おめがね』に適うこと」だったようにも思えます。「作品を通して、様々な柳と棟方の考え方の違いを読み取ることは出来ますが、根底に流れる師弟の絆の深さ、『師』と『弟子』の関係はゆるぎないものだったと思います。」と石井さん。ともすれば暴走しがちな棟方を『志功→恋功→急功→忘功』と戒めたこともある柳でしたが、最後に「棟方は、不生の域に達した」と、最大の賛辞を贈りました。民藝美の本質は「不生」にあり、とする柳の院号もまた「不生院」です。

以上石井先生のお話は、大変内容の濃密な示唆に富んだものであり、当日参加の方々からも深い感銘を受けたと、多くの声がよせられました。

今後ますますのご活躍と発展をお祈りし、今回の報告とさせていただきます。

(竹下賢治)